第5回:「ありがとう」の先にあるもの(最終回)
4回にわたって、小林正観の思想を見てきた。
「ありがとう」を年間2万5千回言う。
起きることを受け入れる。
頼まれたことを淡々とやる。
宇宙を味方につける。
シンプルな教えだ。
でも、シンプルだからこそ、深い。
シンプルだからこそ、危うい。
この連載で考えてきたこと
第1回では、「ありがとう」の意味を考えた。
心がこもっていなくても、言葉を繰り返すことに意味があるのか。
言葉が先か、心が先か。
第2回では、「受け入れる」ことの難しさを考えた。
受け入れることと、諦めることは違うのか。
心の中の戦いを止めることとは何か。
第3回では、「頼まれごと」で生きることを考えた。
自分の意志はどこへ行くのか。
委ねることと、流されることの違いは何か。
第4回では、「宇宙が味方する」という考えを考えた。
不幸な人は見放されているのか。
信じることと、盲信することの違いは何か。
どの問いにも、明確な答えは出なかった。
小林正観の教えが救う人
小林正観の教えには、救いがある。
「やりたいこと」が見つからなくて苦しんでいる人。
頼まれたことをやればいい、と言われると楽になる。
いつも不満を言っていて、疲れている人。
「ありがとう」を言うだけでいい、と言われると楽になる。
運命に翻弄されていると感じている人。
宇宙が味方してくれる、と言われると楽になる。
シンプルな教えは、シンプルな救いになる。
複雑に考えすぎて動けない人には、「まず、これだけやればいい」という指針が必要なのかもしれない。
小林正観の教えの危うさ
同時に、危うさもある。
「ありがとう」を言えば変わる、という教えは、言わない人を責めることにつながりかねない。
「なぜ感謝しないんだ」と。
受け入れることを説く教えは、理不尽を容認することにつながりかねない。
「文句を言うな」と。
宇宙が味方する、という教えは、不幸な人を自己責任で片付けることにつながりかねない。
「お前の感謝が足りないからだ」と。
どんな教えにも、光と影がある。
すべてを信じる必要はない
小林正観の教えを、すべて信じる必要はない。
「ありがとう」を言うのはいいかもしれない。
でも、2万5千回という数字に縛られる必要はない。
受け入れることは大事かもしれない。
でも、怒りや悲しみを否定する必要はない。
頼まれごとに応えるのはいいかもしれない。
でも、自分の意志を捨てる必要はない。
宇宙が味方してくれると思うのはいいかもしれない。
でも、それを他人に押し付ける必要はない。
つまみ食いでいい
教えは、料理のようなものかもしれない。
一つの料理をすべて食べる必要はない。
美味しいところだけ食べてもいい。
合わない味は、残してもいい。
小林正観の教えも同じだ。
響く部分だけ取り入れればいい。
違和感がある部分は、保留にしておけばいい。
「信じるか、信じないか」の二択ではない。
「この部分は参考になる」「この部分は自分には合わない」
そういう選び方でいい。
問い続けることの意味
この連載では、答えを出さなかった。
出せなかった、というのが正確かもしれない。
でも、それでいいと思う。
答えが出ないことを、問い続ける。
それ自体に意味があるのではないか。
「ありがとう」とは何か。
受け入れるとは何か。
信じるとは何か。
これらの問いに、一生かけて向き合い続ける人もいる。
小林正観も、そういう人だったのかもしれない。
「ありがとう」の先にあるもの
「ありがとう」を言い続けた先に、何があるのだろう。
小林正観は「奇跡が起きる」と言った。
でも、奇跡とは何だろう。
もしかしたら、奇跡とは、大きな出来事ではないのかもしれない。
毎日が、少し楽になること。
人との関係が、少し温かくなること。
自分自身を、少し好きになれること。
そういう小さな変化の積み重ねが、「奇跡」なのかもしれない。
最後に
小林正観の思想を、信じるも信じないも自由だ。
ただ、考え続けることはできる。
「ありがとう」とは何か。
感謝とは何か。
人生をどう生きるか。
この連載が、そういう問いを考えるきっかけになれば嬉しい。
答えは出ない。
でも、問い続けることに意味があるのかもしれない。
少なくとも、自分はそう思いたい。
ここまでの気づき
- 小林正観の教えには、救いと危うさの両面がある
- すべてを信じる必要はない。響く部分だけ取り入れればいい
- 答えが出ない問いを、問い続けること自体に意味があるのかもしれない