第5回:自分の中の政治家(最終回)
テレビを見ている。
政治家が、以前と違うことを言っている。
「またか」と思う。
「この人はダメだ」と思う。
「どうして政治家はこうなんだ」と思う。
そしてチャンネルを変える。
批判して、終わり。
でも、ふと考える。
自分は、いつも同じことを言い続けているだろうか。
自分の中の「変節」
思い返してみる。
若い頃、「仕事なんて生活のためだ」と言っていた。
今は「やりがいが大事だ」と言っている。
独身の頃、「結婚なんて自由を失うだけだ」と思っていた。
結婚した友人を見て、「いいな」と思っている自分がいる。
入社したとき、「この会社のやり方はおかしい」と思っていた。
3年経ったら、新人に「まずはやり方を覚えなさい」と言っている。
変わっている。
自分も、変わっている。
小さな保身
日常の中で、保身で動いたことはないだろうか。
会議で、本当は反対だったのに黙っていた。
波風を立てたくなかったから。
友人の意見に違和感があったのに、合わせた。
嫌われたくなかったから。
「本当はこう思う」を飲み込んで、「そうだね」と言った。
場の空気を壊したくなかったから。
これは保身だ。
政治家がやれば批判されること。
自分がやると、「大人の対応」と呼ぶ。
批判という名の安全地帯
もうひとつ。
政治家を批判するとき、自分はどこに立っているだろう。
「あいつらがちゃんとしないから、この国はダメなんだ」
そう言うとき、自分は安全な場所にいる。
立場を持たない場所。責任を負わない場所。
批判する側には、守るものがない。だから自由に語れる。
これは、この連載で見てきた構造と同じではないだろうか。
立場がなければ、大胆に言える。守るものがなければ、理想を叫べる。
かつての候補者と同じだ。
投票に行っただろうか。
政策の中身を読んだだろうか。
地域の課題に関わっただろうか。
「政治家が悪い」と言うのは、立場を持たない自由を使っているだけかもしれない。
もし自分がその立場に立ったら、同じことが言えるだろうか。
批判は鏡
政治家を批判するとき、実は自分を映しているのかもしれない。
「あいつは保身だ」と怒るとき。
自分は保身で動いたことがないだろうか。
「あいつはブレた」と嘆くとき。
自分はいつも一貫しているだろうか。
「あいつは口だけだ」と呆れるとき。
自分は行動で示しているだろうか。
他人の中に見える欠点は、自分の中にもあることが多い。
それに気づくのは痛いけれど、たぶん大事なことだ。
「あいつはダメだ」の先へ
政治家を批判することは、民主主義において重要な行為だ。
黙っていていいわけではない。
でも、批判だけでは何も変わらない。
「あいつはダメだ」で終わると、自分は何もしなくていい。
正義の側にいるだけで、気持ちよくなれる。
その先に行くとしたら、何があるだろう。
自分が変わることかもしれない。
自分の「小さな保身」に気づくことかもしれない。
自分が「安全地帯」から語っていることに気づくことかもしれない。
政治を変えたいなら、まず自分の中の政治家に向き合う。
自分がコロコロ変わる理由に向き合う。
それは遠回りに見えるけれど、一番確実な一歩なのかもしれない。
ここまでの気づき
- 自分も立場によって変わっている。政治家と同じ構造を持っている
- 政治家を批判することが、自分自身への問いを避ける手段になっていることがある
- 「あいつはダメだ」の先に行くには、自分の中の政治家に向き合うことが必要なのかもしれない
この連載を終えて
5日間、「なぜ政治家はコロコロ変わるのか」を考えてきた。
立場が変われば、見えるものが変わる。
守るものが変わる。
一貫性は美徳でもあり、思考停止でもある。
保身と責任は、混ざっている。
そして、それは政治家だけの話ではなかった。
自分の中にも、同じ構造があった。
政治家を批判するなとは思わない。
おかしいことは、おかしいと言えばいい。
ただ、批判した後に、一瞬だけ考えてみてほしい。
「自分なら、どうしただろう」と。
その一瞬の問いが、批判を思考に変える。
思考が行動を変え、行動が社会を変える。
少なくとも、自分はそう信じたい。