「出会うべくして出会う」は本当か
「縁があった」
誰かとの出会いを振り返るとき、よくこの言葉を使う。
偶然入った店で、運命の人と出会った。 たまたま参加したイベントで、人生を変える友人ができた。 何気ない会話が、仕事につながった。
こういう話を聞くと、「縁があったんだね」と言う。
でも、ふと思う。
これは本当なのだろうか。 それとも、後付けの解釈なのだろうか。
「縁」という言葉
日本語の「縁」は、不思議な言葉だ。
必然ではない。 かといって、偶然でもない。 その間にある、静かな必然性のようなもの。
この言葉の起源は、仏教にある。
「因縁」という言葉がある。 すべての物事は、原因と条件が揃って初めて起こる。
花が咲くのは、種があるだけでは足りない。 土があり、水があり、日光がある。 すべてが揃ったとき、花は咲く。
出会いも同じだと、仏教は言う。
あなたがその場所にいたこと。 相手がその場所にいたこと。 話しかける気分だったこと。 聞く耳を持っていたこと。
すべてが揃ったとき、「出会い」になる。
一期一会の哲学
16世紀の茶人、千利休。 彼は「一期一会」という言葉を残した。
茶会は、同じメンバーが集まっても、二度と同じ時間にはならない。
今日のあなたは、昨日のあなたではない。 今日の私は、昨日の私ではない。 空気も、光も、季節も違う。
だから、この一瞬は一生に一度しかない。
この考え方には、ある種の諦めがある。
「もう一度」はない。 だから、今この瞬間を大切にするしかない。
執着しても仕方がない。 この瞬間は、二度と戻らないのだから。
セレンディピティという概念
西洋にも、似た概念がある。
「セレンディピティ」という言葉だ。 偶然の幸運、予期せぬ発見という意味で使われる。
ただ、研究者たちは気づいた。
セレンディピティは、完全な偶然ではない。 「準備された心」が必要だ。
リンゴが落ちるのを見た人は、ニュートンだけではない。 でも、万有引力を発見したのはニュートンだった。
なぜか。
ニュートンには「準備された心」があった。 物理学の問題を考え続けていたから、リンゴの落下に意味を見出せた。
出会いも同じかもしれない。
3万人とすれ違う中で、ある人が「特別」に見えるのはなぜか。
それは、あなたの心が「準備されていた」からではないか。
信じることの効果
「出会うべくして出会う」を信じることで、何が変わるのだろうか。
ひとつは、感謝の気持ちだ。
偶然と思えば、当たり前に感じる。 必然と思えば、ありがたく感じる。
同じ出会いでも、受け止め方が変わる。
もうひとつは、執着の手放しだ。
「縁があれば、また会える」 「縁がなければ、それまでだ」
そう思えると、無理に関係を維持しようとする力が抜ける。
逆に、信じないとどうなるか。
すべてが偶然なら、コントロールしようとする。 偶然を偶然のままにしておけない。 結果、疲弊する。
「信じるかどうか」ではない
ここまで考えて、ひとつのことに気づく。
「縁」は、信じるかどうかの問題ではない。 「どう向き合うか」の問題だ。
縁を信じても、行動しなければ出会いは生まれない。 縁を信じなくても、行動すれば出会いは生まれる。
大切なのは、目の前の出会いをどう受け止めるか。
3万人という限られた出会いの中で、この人と出会った。 それを「縁があった」と思うか、「たまたま」と思うか。
どちらでもいい。
ただ、「縁があった」と思う方が、少し優しくなれるかもしれない。
ここまでの気づき
- 「縁」は必然でも偶然でもない、静かな必然性
- 「一期一会」は、この瞬間が二度とないことを知ること
- セレンディピティには「準備された心」が必要
- 縁を信じることで、感謝と手放しが生まれる
明日へ
3万人のうち、好きになれる人がいる。 当然、嫌いになる人もいる。
でも、嫌われることは、本当に悪いことだろうか。
明日は、その逆説について考えてみたい。