#14分

正しい人が、一番怖い

正しさで殴る人たち正義考え方SNS炎上エッセイニーチェルサンチマン哲学

正しい人が、一番怖い

SNSを開く。

誰かが叩かれている。


理由を読む。

なるほど、確かに悪いことをしたらしい。

不倫をした。差別的な発言をした。約束を破った。

叩かれる理由は、ある。


でも、叩いている人たちの言葉を見ると、ゾッとする。

「謝れ」「消えろ」「二度と出てくるな」

正しいことを言っているはずなのに、なぜこんなに怖いのだろう。


正論という武器

飲み会の席を思い出してほしい。

「説教おじさん」がいなかっただろうか。


言っていることは、正しい。

「もっと努力しないとダメだ」 「若いうちに苦労しておけ」 「感謝の気持ちを忘れるな」

どれも、間違ってはいない。


でも、聞きたくない。

なぜだろう。


正しいからだ。

正しいから、反論できない。

「いや、努力しなくていいでしょ」とは言えない。 「苦労なんていらないでしょ」とも言えない。

正論は、相手の口を封じる。


つまり、正しさは「反論できない武器」になる。

ナイフで切りつけるなら、相手は逃げられる。抵抗もできる。

でも正しさで切りつけられたら、逃げ場がない。

「だって正しいじゃないか」

この一言で、すべてが正当化される。


家の中の正しさ

職場やSNSだけの話ではない。

家庭の中にも、正しさの武器はある。


「あなたのためを思って言ってるの」

この言葉を聞いたことがあるだろうか。


親が子に言う。 配偶者が相手に言う。 上司が部下に言う。

「あなたのため」。


言っている本人は、本当にそう思っている。

嘘ではない。


でも、言われた側は苦しい。

「あなたのため」と言われた瞬間、反論は「恩知らず」になる。 断ることは「わがまま」になる。 逃げることは「裏切り」になる。


正しさは、相手を縛る鎖になることがある。

善意の鎖は、悪意の鎖より外しにくい。


正しさの快楽

ここで、もう一つ考えてみたいことがある。

なぜ人は、正しさを振りかざしてしまうのだろう。


SNSで誰かを叩いたことはあるだろうか。

なくても、心の中で「ざまあみろ」と思ったことは。


正直に言えば、ある。

たぶん、多くの人にある。


不倫をした芸能人が謝罪会見をしている。

「当然だ」と思う。

その瞬間、ほんの少し、気持ちいい。


なぜか。

正しい側に立っているからだ。

「自分は間違っていない」という確認ができる。 「あいつは間違っている」という優位に立てる。

正しさには、快楽がある。


これが厄介だ。

怒りには、ブレーキがかかる。「言い過ぎたかな」と反省する。

でも、正しさにはブレーキがかかりにくい。

だって、正しいのだから。


正しいから、もっと言っていい。 正しいから、もっと叩いていい。 正しいから、もっと追い詰めていい。

正しさが、歯止めを外す。


「正しい」と「正しさを振りかざす」

ここで区別したいことがある。

「正しい」ことと、「正しさを振りかざす」ことは、違う。


正しいことを思うのは、自然だ。

不正を見て怒るのは、健全だ。


でも、その正しさを武器にして、相手を追い詰める瞬間がある。

そのとき、正しさは暴力に変わっている。


境界線は、どこにあるのだろう。

たぶん、「相手のため」ではなく「自分が気持ちいいから」になった瞬間だ。


でも、その境界線は自分では見えにくい。

なぜなら、正しいから。

正しいと信じている限り、自分がどちら側にいるか、気づけない。


ここまでの気づき

  • 正しさは「反論できない武器」になる。相手の逃げ場を奪う
  • 善意の正しさ(「あなたのため」)は、悪意より外しにくい鎖になる
  • 正しさには快楽がある。だから歯止めが効きにくい

明日へ

正しさが気持ちいい。

それは、なぜだろう。

150年前、一人の哲学者がその構造を暴いていた。

正義の裏に隠れているもの。

明日は、その話をしてみたい。