#15分

「ありがとう」は呪文なのか|感謝の哲学を問い直す

小林正観感謝ありがとう自己啓発スピリチュアル哲学問い直す受け入れる

第1回:「ありがとう」は呪文なのか

「ありがとう」を言えば、人生が変わる。

そんな話を聞いたことがあるだろうか。


小林正観という人がいた。

心学研究家。年間300回以上の講演を、40年以上続けた人。

彼は言った。

「ありがとう」を年間2万5千回言うと、人生が好転する、と。


年間2万5千回。

1日に換算すると、約68回。

起きている時間が16時間だとすると、15分に1回「ありがとう」を言う計算になる。


多いと思うだろうか。

少ないと思うだろうか。


心がこもっていなくてもいい

小林正観の教えには、不思議なところがある。

「心がこもっていなくてもいい」と言うのだ。


普通、「ありがとう」には心がこもっているべきだと思う。

感謝の気持ちがあるから、「ありがとう」と言う。

それが自然な順番だ。


でも、小林正観は逆のことを言った。

まず「ありがとう」と言う。

言い続けていると、心がついてくる、と。


これは、どういうことだろう。


言葉が先か、心が先か

「笑う門には福来る」という言葉がある。

幸せだから笑うのではなく、笑うから幸せになる。


「ありがとう」も同じなのだろうか。

感謝しているから言うのではなく、言うから感謝できるようになる。


心理学では「認知的不協和」という概念がある。

行動と心が矛盾していると、人は心を行動に合わせようとする。


「ありがとう」と言い続けていると、「ありがとう」と言うにふさわしい理由を探し始める。

そうすると、今まで気づかなかった「ありがたいこと」が見えてくる。


なるほど、理屈は分かる。

でも、何か引っかかる。


回数への違和感

2万5千回。

なぜ、その数字なのだろう。


小林正観によれば、2万5千回を超えると「奇跡」が起き始めるという。

2万4千回では足りない。

2万5千回が境界線だ、と。


これは、科学的根拠があるわけではない。

小林正観自身も、「実験してみたらそうだった」と言っている。


正直に言えば、怪しい。

でも、完全に否定もできない。


なぜなら、「回数を数える」という行為自体に意味があるかもしれないから。


数えることの意味

瞑想では、呼吸を数えることがある。

1、2、3、4……と数えながら呼吸する。


数えること自体に、何か効果があるわけではない。

でも、数えることで意識が集中する。

雑念が減る。


「ありがとう」を数えることも、同じかもしれない。

2万5千という数字に意味があるのではなく、数えようとすること自体に意味がある。


意識が「ありがとう」に向く。

「ありがとう」を言う機会を探すようになる。

結果として、感謝の対象が増える。


そう考えると、少し納得できる気もする。


それでも残る疑問

でも、疑問は残る。


本当に感謝しているわけではないのに、「ありがとう」と言う。

それは、嘘ではないのだろうか。


相手に対しても、自分に対しても、誠実と言えるのだろうか。


小林正観は言う。

「ありがとう」は呪文のようなものだ、と。

意味が分からなくても、唱えれば効果がある、と。


呪文。

その言葉に、少し抵抗を感じる人もいるだろう。


呪文と祈りの違い

呪文には、ある種の「操作」のニュアンスがある。

何かを得るために、言葉を使う。

自分の利益のために、宇宙を動かそうとする。


一方で、祈りには「委ねる」ニュアンスがある。

結果を期待せず、ただ祈る。

見返りを求めない。


「ありがとう」は、どちらだろう。


人生を好転させるために「ありがとう」を言う。

それは呪文に近い。


でも、言い続けているうちに、本当に感謝の気持ちが湧いてくる。

そうなったとき、それは祈りに変わるのかもしれない。


分からない。

簡単に答えは出ない。


ここまでの気づき

  • 「ありがとう」を回数で数えるという発想は、一見奇妙だが、意識を向ける効果があるのかもしれない
  • 言葉が先か、心が先か。その順番は、思っているほど固定されていないのかもしれない
  • 「呪文」と割り切ることへの抵抗は、誠実さへのこだわりなのかもしれない

明日へ

小林正観は、「ありがとう」だけでなく、「受け入れる」ことも説いた。

起きることはすべて必然。抵抗しない。受け入れる。


でも、理不尽なことが起きたとき、本当に受け入れられるだろうか。

受け入れることと、諦めることは違うのだろうか。


明日、考えてみたい。