#14分

第1回:「ダサい」と感じる瞬間

哲学エッセイ

第1回:「ダサい」と感じる瞬間

電車の中で、大声で電話している人がいる。

周りの視線に気づいていない。

あるいは、気づいているのに止めない。

それを見て、思う。

ダサいな、と。


SNSで、自分の成功ばかり並べている人がいる。

高級レストラン。海外旅行。ブランド品。

嘘ではないのだろう。

でも、何かが引っかかる。

ダサいな、と。


会議で、自分のミスを部下のせいにしている上司がいる。

言葉巧みに責任をすり替える。

周りは気づいている。本人だけが気づいていない。

ダサいな、と。


「ダサい」は不思議な言葉だ

よく考えると、「ダサい」の定義は曖昧だ。

ファッションの話だろうか。

違う気がする。

センスの話だろうか。

それだけでもない。


電車で大声の人は、服装がダサいわけじゃない。

SNSで自慢する人は、持ち物がダサいわけじゃない。

ミスを押し付ける上司は、見た目がダサいわけじゃない。

なのに、「ダサい」と感じる。

なぜだろう。


「ズレ」ているからダサい

少し考えてみた。

電車で大声の人。場との「ズレ」がある。

SNSで自慢する人。自分の見え方と周囲の受け取り方に「ズレ」がある。

責任を押し付ける上司。自分の認識と現実に「ズレ」がある。

共通しているのは、本人がそのズレに気づいていないということだ。


おしゃれな人は、場に合っている。

かっこいい人は、自分の見え方を知っている。

美しい振る舞いは、現実と認識が一致している。

つまり「ズレ」がない。


「ダサい」の反対は「おしゃれ」ではないのかもしれない。

「ダサい」の反対は「自分が見えている」ということなのかもしれない。


ダサいとき、うまくいっていない

ここで、もうひとつ気づくことがある。

「ダサい」と感じる人を思い浮かべてほしい。

その人は、うまくいっているだろうか。


電車で大声の人。余裕がない。

SNSで自慢する人。満たされていない。

責任を押し付ける上司。信頼されていない。

「ダサい」状態の人は、大体うまくいっていない。


逆はどうだろう。

静かに結果を出している人。ダサくない。

失敗を素直に認める人。ダサくない。

見栄を張らず、自然体でいる人。ダサくない。

そして、大体うまくいっている。


偶然だろうか。

そうは思えない。

「ダサい」と「うまくいっていない」は、どこかで深くつながっている気がする。


鏡としての「ダサい」

他人の「ダサさ」は目につく。

でも、自分の「ダサさ」はどうだろう。


最近、言い訳をしなかっただろうか。

誰かのせいにしなかっただろうか。

無理に自分を大きく見せなかっただろうか。


「ダサいかどうか」は、正しいかどうかより正直な問いかもしれない。

理屈で「自分は間違っていない」と言い張ることはできる。

でも「ダサくないか」と問われたら、嘘がつきにくい。


「ダサい」は、自分の状態を映す鏡なのかもしれない。

うまくいっていないとき、人はダサくなる。

そして、ダサくなっていることに気づかない。


ここまでの気づき

  • 「ダサい」の正体は、本人が気づいていない「ズレ」かもしれない
  • 「ダサい」状態の人は、大体うまくいっていない
  • 「ダサいかどうか」は、自分を正直に見つめる問いになる

明日へ

「ダサい」行動のなかで、最も身近なものがある。

言い訳だ。

誰でもやる。自分でもやる。

でも、言い訳しているとき、人はどうしようもなくダサい。

なぜだろう。

明日、その話をしてみたい。