#55分

第5回:ダサさを知ることの価値(最終回)

哲学エッセイ

第5回:ダサさを知ることの価値(最終回)

ダサいと思われたくない。

これは、ほとんどの人が持っている感覚だろう。


服を選ぶとき。

言葉を選ぶとき。

行動を選ぶとき。

「これ、ダサくないかな」と、どこかで考えている。


でも、ダサさを恐れすぎると、動けなくなる。

新しいことを始められない。

失敗が怖い。

人の目が気になる。


「ダサいと思われたくない」が、人生のブレーキになっている。

あなたにも、覚えがあるだろうか。


ダサさを恐れるダサさ

4日間、「ダサい」を掘り下げてきた。

ズレ。言い訳。他責。必死さ。


でも、もうひとつ気づいたことがある。

ダサさを恐れている姿も、ダサい。


本当は挑戦したいのに、失敗が怖くてやらない。

本当は言いたいことがあるのに、嫌われるのが怖くて黙る。

本当は自分らしくいたいのに、浮くのが怖くて合わせる。


安全な場所にいることで、ダサさを避けている。

でも、その姿自体がダサいのかもしれない。

自分の人生を生きていないから。


ダサさは人生のセンサー

ここまで考えてきて、思うことがある。

「ダサい」は悪い言葉ではないのかもしれない。


「ダサいな、自分」と感じる瞬間。

それは、自分の状態に気づいた瞬間だ。


言い訳している自分に気づく。

他人のせいにしている自分に気づく。

必死になっている自分に気づく。


気づかなければ、変われない。

気づくから、変われる。


「ダサい」は、自分の状態を教えてくれるセンサーなのかもしれない。

うまくいっていないとき、センサーが反応する。

「今の自分、ダサくないか」と。


そのセンサーを無視するか、受け止めるか。

その差は、大きい気がする。


正しさより「ダサくないか」

人は、正しさで自分を正当化できる。

「自分は間違っていない」と言い張ることは、いくらでもできる。


言い訳も、論理的には正しい。

他責も、事実として正しいこともある。

見栄も、嘘ではない。


でも、「ダサくないか」と問われたら、嘘がつきにくい。

正しさは理屈で守れる。

でもダサさは、直感で見抜かれる。


「正しいか」ではなく「ダサくないか」。

この問いのほうが、自分に正直になれるのかもしれない。


ダサかった自分を認める

振り返ると、ダサかった時期がある。

言い訳ばかりしていた時期。

人のせいにしていた時期。

認められたくて必死だった時期。


それを認めるのは、少し痛い。

でも、認められるということは、今はそこにいないということだ。


ダサかった自分を否定する必要はないのかもしれない。

ダサかったから、気づけた。

気づいたから、変わった。

変わったから、今がある。


ダサさは、通過点だったのかもしれない。


ダサさを恐れない

最後に、ひとつだけ。

ダサいことは、恥ずかしいことではない。


誰だってダサい時期がある。

ダサい行動をする日がある。

ダサい判断をするときがある。


大事なのは、ダサさに気づけるかどうか。

気づいたとき、認められるかどうか。

認めたとき、変えられるかどうか。


ダサさを恐れて動かないより、ダサくても動くほうがいい。

少なくとも、動いている人はダサくない。


「ダサい」を知ることは、自分を知ることだ。

自分を知ることは、自分の人生を生きることだ。


この5日間で考えてきたことが、何かのきっかけになればと思う。


ここまでの気づき

  • ダサさを恐れて動けないことが、一番ダサいのかもしれない
  • 「ダサい」は人生の状態を知らせるセンサーだ
  • 「正しいか」より「ダサくないか」のほうが、自分に正直になれる

この連載を終えて

5日間、「ダサい」という言葉をずっと考えてきた。

ズレ。言い訳。他責。必死さ。そして、恐れ。


「ダサい」は、ただの悪口ではなかった。

自分の状態を映す、正直な鏡だった。


うまくいっていないとき、人はダサくなる。

でも、それに気づける人は、もうダサくない。


あなたの「ダサくないか」というセンサーが、これからも正直に働いてくれることを願っている。