#45分

第4回:必死さが見えるダサさ

哲学エッセイ

第4回:必死さが見えるダサさ

マッチングアプリのプロフィールを見ていると、気づくことがある。

「年収○○万」「都内タワマン在住」「外資系勤務」

スペックが並んでいる。


嘘ではないのだろう。事実なのだろう。

でも、画面の向こうにいる人を想像すると、少し冷めてしまう。

この人は、何を伝えたいのだろう。

自分という人間を伝えたいのか。

それとも、自分のスペックを売り込みたいのか。


初めて会った人と話している場面。

相手がずっと自分の話をしている。

仕事の実績。旅行の話。最近買ったもの。

聞いていないことまで教えてくれる。


悪い人ではない。

でも、見ている側はうっすら思っている。

この人、必死だな、と。


「必死さ」が見えるとダサい

ここに共通するものがある。

頑張っている感が見えている。

努力は悪いことではない。頑張ることも悪いことではない。

なのに、「頑張っている感」が透けると、途端にダサくなる。


なぜだろう。


必死さが見えるとき、そこには「認めてほしい」という欲求がある。

「すごいと思ってほしい」

「うらやましいと思ってほしい」

「尊敬してほしい」


その欲求自体は、人間として自然なものだ。

誰だって認められたい。

でも、それが見えてしまったとき、何かが崩れる。


余裕のなさが透ける

かっこいい人を思い浮かべてほしい。

その人は、自分のすごさを語っているだろうか。

たぶん、語っていない。


結果を出しているのに、淡々としている。

成功しているのに、ひけらかさない。

できるのに、自分から言わない。


余裕がある。

自分を証明する必要がない。

だから、自然体でいられる。


逆に、必死な人は余裕がない。

自分を証明しなければいけないと思っている。

「認めてもらえなかったら、自分には価値がない」

その恐怖が、必死さとして滲み出る。


つまり、必死さの裏側にあるのは自分を信じていないことなのかもしれない。

自分に自信があれば、証明する必要がない。

証明する必要がなければ、必死にならない。

必死にならなければ、自然体でいられる。


数字で測る自分

この時代、自分の価値が数字で可視化される。

フォロワー数。いいねの数。閲覧数。年収。偏差値。


数字が上がると安心する。

下がると不安になる。

もっと上げたくなる。もっと「すごい自分」を示したくなる。


でも、数字を追いかけている人の顔を思い浮かべてほしい。

穏やかだろうか。

たぶん、穏やかではない。


数字を追いかけているとき、人は数字に追いかけられている。

主導権が数字に移っている。

それは、第3回で話した「他責の椅子」と似ている。

自分の人生を、自分の外にあるものに委ねている。


「認められたい」の正体

認められたい。

これは人間の根っこにある欲求だ。否定するものではない。


でも、「認められたい」が行動の動機になっているとき、何かがおかしくなる。


認められるために頑張る。

認められたら嬉しい。

でも、すぐにまた不安になる。

次も認められるだろうか。もっと認められたい。


終わりがない。

満たされない。


それは「認められたい」の問題ではなく、「認められないと価値がない」と思い込んでいることの問題なのかもしれない。


認められなくても、自分には価値がある。

そう思えたとき、必死さは消える。

消えたとき、不思議と人は寄ってくる。


見栄を手放すとき

見栄を張っているとき、人は疲れる。

自分ではない自分を演じ続けるのは、体力がいる。


「すごいと思われたい自分」を維持するために、

行きたくもない場所に行く。

買いたくもないものを買う。

言いたくもないことを言う。


それは、誰の人生だろう。


見栄を手放した人は、静かだ。

自分の好きなものを好きと言う。

できないことをできないと言う。

等身大で生きている。


その姿は、ダサくない。

むしろ、どこか清々しい。


ここまでの気づき

  • 必死さが見えるとダサいのは、「認めてほしい」が透けるから
  • 必死さの裏側には、「認められないと価値がない」という思い込みがあるのかもしれない
  • 見栄を手放すと、等身大の自分が見える

明日へ

4日間、「ダサい」を掘り下げてきた。

ズレ。言い訳。他責。必死さ。

どれも身に覚えがある。


最終回は、「ダサさを知ること」そのものについて考えてみたい。

ダサいことは、悪いことなのだろうか。

ダサさを恐れることは、正しいのだろうか。

明日、この連載を締めくくりたい。