#35分

第3回:他人のせいにするダサさ

哲学エッセイ

第3回:他人のせいにするダサさ

料理を焦がした。

「このコンロ、火力がおかしい」


子どもが言うことを聞かない。

「あの子の友達の影響が悪い」


友人と疎遠になった。

「あいつが連絡してこないから」


どこかで聞いたことがある話だろう。

もしかしたら、自分が言った言葉かもしれない。


言い訳と何が違うのか

昨日、言い訳の話をした。

言い訳は、ひとつの出来事に対する防御だ。

遅刻したとき。ミスをしたとき。その場をしのぐために出てくる。


他責は違う。

もっと根深い。

人生の姿勢になっている。


転職しても同じ不満を言う人がいる。

恋人を変えても同じ喧嘩をする人がいる。

引っ越しても同じ孤独を感じる人がいる。


場所が変わっても、人が変わっても、同じ問題が起きる。

唯一変わっていないのは、自分だ。

でも、そこには目を向けない。


三つの椅子

ここで、少し整理してみたい。

うまくいかないとき、人が座る椅子は三つある。


一つ目。他責の椅子。

「あいつが悪い」

原因を外に置く。自分は被害者だ。悪いのは相手、環境、時代。

楽だ。でも、何も変わらない。


二つ目。自罰の椅子。

「自分がダメだ」

原因を自分に置く。でも、ただ自分を責めるだけ。

「どうせ自分なんか」「自分はいつもこうだ」

苦しい。そして、やっぱり何も変わらない。


三つ目。引き受ける椅子。

「で、自分はどうするか」

原因がどこにあるかは、いったん脇に置く。

事実を受け止めて、次の一歩を考える。


他責と自罰は、正反対に見える。

「あいつが悪い」と「自分が悪い」。方向が真逆だ。


でも、共通点がある。

どちらも、座り込んでいる。

矢印の向きが違うだけで、動いていない。


引き受けるとは、立ち上がることだ。

誰が悪いかの議論を止めて、「で、どうする」に進むこと。


座り込んでいる人は、ダサい。

立ち上がっている人は、ダサくない。

理由は単純だ。自分の人生を、自分で動かしているから。


「被害者」は居心地がいい

他責の椅子は、なぜ座り心地がいいのだろう。


被害者でいると、同情してもらえる。

「大変だったね」「それはひどいね」

周りが味方になってくれる。


被害者でいると、努力しなくていい。

「自分のせいじゃないから、変わる必要がない」

現状維持に正当性が生まれる。


被害者でいると、傷つかない。

「悪いのはあっちだから、自分は間違っていない」

自尊心は守られる。


同情。免責。自尊心の防御。

これだけ揃えば、居心地がいいのは当然だ。


でも、その椅子に座り続けた人の人生はどうなるだろう。

5年後。10年後。

同じ不満を、同じ表情で、言い続けているのかもしれない。


小さな他責に気づく

大きな他責は気づきやすい。

「会社が悪い」「政治が悪い」「社会が悪い」

さすがにこれは、言っている自分でも気づく。


厄介なのは、小さな他責だ。


「今日、機嫌が悪いのは天気のせい」

「集中できないのは隣がうるさいから」

「やる気が出ないのは疲れているから」


間違いではない。天気も、騒音も、疲労も、影響はある。

でも、そこで止まっている。

「だから仕方ない」で終わっている。


この小さな他責が、静かに積み重なる。

ひとつひとつは些細でも、積み重なると人生の姿勢になる。

気づいたときには、三つ目の椅子がどこにあるかすら分からなくなっている。


一呼吸の価値

他責をゼロにすることは、たぶん無理だ。

人は弱い。外に原因を探してしまう。


でも、ひとつだけ変えられることがあるとしたら。

「あの人のせいだ」と思った後に、一呼吸おく。

そして「で、自分はどうするか」と問い直す。


この一呼吸が、座り込むか立ち上がるかの分かれ道なのかもしれない。

その違いは、才能でも性格でもない。

ただの、一呼吸だ。


ここまでの気づき

  • うまくいかないとき、人は三つの椅子に座る。他責、自罰、引き受け
  • 他責と自罰は正反対に見えるが、どちらも座り込んでいる
  • 「で、自分はどうするか」の一呼吸が分かれ道になる

明日へ

言い訳。他責。

もうひとつ、身近なダサさがある。

必死さが見えること。

頑張っている感。認められたい感。余裕のない感じ。

なぜそれがダサく見えるのか。

明日、考えてみたい。