あなたはもう、何者かである
ここまで読んで、何を感じただろうか。
「何者かにならなくていい」。
そう思えただろうか。
正直に言えば、簡単ではないだろう。
でも、4日間で見てきたことを、もう一度振り返りたい。
4日間で見てきたこと
「何者かになりたい」は、産業革命以降の社会構造が作った焦りだった。
SNSがそれを加速させた。選択肢の過剰が麻痺を生んだ。
サルトルは言った。人間に固定的な本質はない。
ニーチェは言った。「なる」は到達点ではなくプロセスだ。
ハイデガーは言った。「何者かになるべきだ」は、世人の声だ。
「何者かになった」人の70%が、自分の成功を信じられない。
ゴッホもカフカもディキンソンも、生前は「何者でもなかった」。
渾沌は穴を開けられて死んだ。
老子の原木は、器になった瞬間に全体性を失った。
キーツは「分からないままでいられる力」を最も創造的な能力だと言った。
「何者でもない」の再定義
前のシリーズ「逃げるの哲学」で、「逃げる」を「向かう」と再定義した。
「運がいい人の正体」で、「運がいい」を「偶然に気づける状態」と再定義した。
「何者でもない」も、再定義できるかもしれない。
「何者でもない」とは。
まだ器になっていない原木。
可能性そのもの。
「何者かになった」瞬間に、他の可能性は消える。
「何者でもない」は、すべてが残っている状態だ。
でも、ここで立ち止まりたい
「何者にならなくてもいい」。
この言葉は、正しいかもしれない。
荘子も、老子も、仏教も、それを裏付けている。
でも、少し危険な言葉でもある。
前々回のシリーズ「正しさで殴る人たち」で書いたことを思い出してほしい。
正しいことが、武器になることがある。
正論が、人を殴ることがある。
「何者にならなくてもいい」も、使い方を間違えると同じ構造になる。
「何者になれないのは、執着が手放せないからだ」
「もっと自由に生きればいいのに」
「肩書きに囚われているのは、自分のせいだ」
これは、正論かもしれない。
でも、正論で殴っている。
生活のために肩書きが必要な人もいる。
「何者か」でないと仕事がもらえない世界もある。
哲学を味わう余裕がない人もいる。
「何者にならなくてもいい」は、余裕がある人が言える言葉だ。
余裕がない人にとっては、もう一つの重荷になりかねない。
ディキンソンの声
ここで、一つの詩を紹介したい。
エミリー・ディキンソンが書いた詩だ。
「私は何者でもない! あなたは誰?」
「あなたも、何者でもない?」
「じゃあ私たちは仲間ね!」
「なんて退屈なの、『何者か』であるって!」
「蛙みたいに、自分の名前を告げること」
「うっとりする沼地に向かって!」
ディキンソンは、1,800編以上の詩を書いた。
生前に発表したのは、約10編。
「何者か」にならなかった。なろうともしなかった。
でも、書き続けた。
「何者かになるため」ではなく、書きたいから書いた。
良寛という生き方
日本にも、似た人がいた。
良寛。
江戸時代の禅僧だ。
寺を持たなかった。
肩書きもなかった。
托鉢で暮らし、子供たちと手毬をついて遊んだ。
辞世とされる句がある。
「うらを見せ おもてを見せて 散るもみぢ」
裏も表もない。良い面も悪い面も、ただ見せて散る。
「何者か」を演じなかった。ただ、そこにいた。
禅には「平常心是道」という言葉がある。
『無門関』第19則に出てくる。
「道とは何ですか」と弟子が聞いた。
師は答えた。「平常心が道だ」。
特別でない心。日常のありふれた心。
何者でもない心。
悟りは、特別な場所にはない。
日常そのものの中にある。
鈴木俊隆は、こう書いた。
「初心者の心には多くの可能性がある。しかし専門家の心にはほとんどない」
「何者かになった」心には、もう可能性が少ない。
「何者でもない」心には、まだすべてがある。
ここまでの気づき
- 「何者でもない」は可能性そのもの。器になっていない原木は、何にでもなれる
- 「何者にならなくてもいい」も正論になると人を殴る。余裕がない人に哲学は届きにくい
- ディキンソンも良寛も「何者か」になろうとしなかった。でも、書いた。遊んだ。生きた
連載を終えて
5回にわたって「何者か」の呪いを考えてきた。
「What do you do?」という質問。
サルトルの「自己欺瞞」。
インポスター症候群。
渾沌の死。
ディキンソンの「私は何者でもない!」。
「何者かになりたい」は、呪いかもしれない。
でも、それに気づいた瞬間、少しだけ呪いが解ける。
あなたはすでに、何かを感じている。
何かを考えている。
何かに違和感を持っている。
それは、もう「何者か」なのではないだろうか。
ここまで読んでくださって、ありがとうございました。
あなたは今日、何者ですか。