渾沌は、穴を開けられて死んだ
『荘子』に、不思議な話がある。
南海の帝を「儵(しゅく)」、北海の帝を「忽(こつ)」と言った。
中央の帝を「渾沌(こんとん)」と言った。
儵と忽は、渾沌のところへよく遊びに来た。
渾沌は、いつも二人を手厚くもてなした。
でも、渾沌には目も耳も鼻も口もなかった。
儵と忽は、恩返しをしようと思った。
「人にはみな七つの穴がある。見たり、聞いたり、食べたり、呼吸したりできる。渾沌だけにはそれがない。穴を開けてやろう」
一日に一つずつ穴を開けた。
七日目に、渾沌は死んだ。
善意の穴
この話は、『荘子』内篇「応帝王」篇の末尾に出てくる。
儵と忽は、悪意で穴を開けたのではない。
恩返しだった。善意だった。
渾沌にも、みんなと同じように見えるようにしてあげたかった。
聞こえるようにしてあげたかった。
でも、渾沌は死んだ。
渾沌は「未分化」の状態だった。
目も耳もない。つまり、区別がない。判断がない。分類がない。
穴を開けるとは、分別を与えることだ。
区別を与えることだ。
定義を与えることだ。
「何者かにする」ことだ。
渾沌は、「何者かにされた」瞬間に、死んだ。
原木と器
ここで、老子の話をしたい。
『道徳経』第28章に、こんな言葉がある。
「朴散じて則ち器と為る」。
朴(ぼく)とは、切り出されていない原木のことだ。
まだ何にも加工されていない。何者でもない。
その原木を切り分けると、器になる。
茶碗になる。棚になる。柱になる。
器は便利だ。
でも、原木に戻ることはできない。
「何者かになる」とは、原木が器になることだ。
茶碗になった木は、もう棚にはなれない。
柱になった木は、もう茶碗にはなれない。
定義された瞬間に、他の可能性は失われる。
「何者にもならない」は、弱さではないのかもしれない。
可能性の全体性を、保っていることなのかもしれない。
無我
仏教にも、似た考えがある。
仏陀は弟子たちにこう説いた。
「これが私だ」「これが私のものだ」「これが私の自己だ」。
そのどれも、言えない。
身体は変わる。感覚は変わる。思考は変わる。
昨日の「私」と今日の「私」は、同じだろうか。
仏教はこれを「無我」と呼んだ。
固定的な「自己」は存在しない、という認識だ。
般若心経はこう言う。
「色即是空」。
すべての現象は、固有の本質を持たない。
「私」も、固定的な実体ではなく、さまざまな因縁が織り成す一時的なパターンにすぎない。
「何者か」という固定的なアイデンティティを求めること。
仏教的には、それこそが苦の原因だ。
「何者でもない」は、敗北ではない。
むしろ、真実に近い認識かもしれない。
不確実さに耐える力
最後に、西洋の話を一つ。
1817年12月、イギリスの詩人ジョン・キーツが弟への手紙にこう書いた。
「不確実さ、神秘、疑念のただ中にあって、事実や理性への性急な追求なしにいられる能力」
キーツはこれを「ネガティヴ・ケイパビリティ」と呼んだ。
「消極的能力」。
分からないままでいられる力。
答えを急がない力。
結論を出さずに留まれる力。
「何者かになりたい」は、「不確実さに耐えられない」ことの表れかもしれない。
自分が何者か分からない。
その不安に耐えられないから、何かに「なろう」とする。
肩書きを求める。資格を取る。フォロワーを増やす。
でも、キーツは言った。
「何者でもない状態に留まれること」。
それこそが、最も創造的な能力ではないか、と。
シェイクスピアは、この能力を途方もなく持っていたとキーツは書いた。
シェイクスピアは、王にも乞食にも、悪人にも聖人にもなれた。
それは、シェイクスピア自身が「何者でもなかった」からではないだろうか。
ここまでの気づき
- 荘子の渾沌:「何者かにする」(穴を開ける)ことは、善意であっても全体性を殺す。渾沌は定義された瞬間に死んだ
- 老子の朴:「何者かになる」は原木が器になること。便利だが不可逆。「何者にもならない」は可能性の全体性を保つこと
- キーツのネガティヴ・ケイパビリティ:「何者でもない状態に留まれる」ことが、最も創造的な能力かもしれない
明日へ
「何者かになりたい」は社会が作った呪いかもしれない。
哲学者は「何者か」を信じていなかった。
「何者かになった」人も安心していない。
東洋思想は「何者でもないこと」に価値を見た。
じゃあ、私たちはどうすればいいのか。
明日は最終回。答えは出ないかもしれない。
でも、一つだけ残したい話がある。