「何者かになった」人が見ている景色
もし「何者かになれた」ら、どうなるだろう。
きっと安心する。
もう焦らなくていい。
「自分は何者でもない」と苦しまなくていい。
本当にそうだろうか。
なっても、安心できない
1978年、心理学者ポーリン・クランスとスザンヌ・アイムスが、不思議な現象を発見した。
客観的に成功している人が、自分の成功を信じられない。
「自分の実力じゃない。運がよかっただけだ」
「いつか、自分が無能だとバレるんじゃないか」
クランスとアイムスは、これを「インポスター現象」と呼んだ。
最初は高業績の女性150人を対象にした研究だったが、後に男女を問わず起きることが分かった。
推定で約70%の人が、人生で一度はこの感覚を経験するとされている。
70%。
つまり、「何者かになった」人の大多数が、自分が「何者か」であることを信じられない。
「何者かになりたい」という呪い。
なった後も、解けない。
観察者の罠
2012年、朝井リョウが小説『何者』を発表した。
第148回直木賞を受賞した。
就職活動中の大学生5人のグループを描いた小説だ。
全員が「何者かになりたい」と思っている。
主人公の拓人は、他の就活生をTwitterで観察している。
「あいつは意識が高いだけだ」
「あの努力は方向が間違っている」
批評する側に立つことで、自分は安全地帯にいると思っている。
でも、ラストで暴かれる。
拓人の裏アカウントが発見される。
他人を「何者にもなれない人」と見下していた拓人こそが、最も「何者にもなれていない」人間だった。
観察者であること。
批評家であること。
それ自体が、「何者かになりたい」呪いからの逃避だった。
他人を評価している側も、同じ呪いの中にいる。
アイデンティティ危機の延長
心理学者エリク・エリクソンは、「アイデンティティ危機」という言葉を作った人だ。
1968年の著書『アイデンティティ:青年と危機』で体系化した。
「自分は誰か」「自分は社会のどこに属するか」が分からなくなる状態。
エリクソンは、これを青年期の正常な発達課題と位置づけた。
10代後半から20代前半に訪れ、通過するもの、と。
でも、現代はどうだろう。
30代になっても「自分は何者か」が分からない人がいる。
40代になっても、同じ問いを抱えている人がいる。
アイデンティティ危機が、終わらない。
面白いことに、エリクソン自身がアイデンティティ危機の当事者だった。
デンマーク系ユダヤ人で、実の父親が誰か知らなかった。
ドイツで育ち、アメリカに移住した。
本名はエリク・サロモンセン。後にエリク・ホンブルガー。最終的にエリク・エリクソンと名乗った。
「アイデンティティ」を研究した人自身が、生涯を通じてアイデンティティを探し続けていた。
生前は「何者でもなかった」人たち
ここで、少し視点を変えてみたい。
ゴッホ。
画家としての活動はわずか10年間だった。
生前はほぼ無名。弟テオの経済的支援なしには生活できなかった。
37歳で死去。
生涯で約2,100点の作品を残した。そのほとんどが、生前は誰にも知られなかった。
死後、20世紀最も有名な画家の一人になった。
カフカ。
本業はプラハの保険局の公務員だった。
文学は「夜の仕事」。昼間は労働者傷害保険の書類を処理していた。
三大長編『審判』『城』『失踪者』はすべて未完成のまま。
遺言は「すべて焼却せよ」。友人のマックス・ブロートが従わず、死後に出版した。
20世紀最大の作家の一人になった。
エミリー・ディキンソン。
約1,800編の詩を書いた。
生前に発表されたのは、約10編。
しかもそのほとんどは本人の意思ではなく、匿名で掲載された。
死後に妹が詩の束を発見し、出版された。
アメリカ文学を代表する詩人の一人になった。
「何者か」にならなかった人たちが、死後に「何者か」になった。
「何者か」は、生きている間に分かるとは限らない。
ここまでの気づき
- インポスター症候群:「何者かになった」人の約70%が、自分の成功を実力だと信じられない。呪いは「なった後」も解けない
- 朝井リョウ『何者』:他人を「何者にもなれない」と批評する人こそ、同じ呪いの中にいる
- ゴッホもカフカもディキンソンも、生前は「何者でもなかった」。「何者か」は、生きている間に分かるとは限らない
明日へ
「何者かになりたい」の呪いは、なった後も解けない。
じゃあ、どうすればいいのか。
2300年前の中国に、面白い寓話がある。
渾沌という名の帝が、死んだ話だ。