#35分

「何者かになった」人が見ている景色

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「何者かになった」人が見ている景色

もし「何者かになれた」ら、どうなるだろう。


きっと安心する。

もう焦らなくていい。

「自分は何者でもない」と苦しまなくていい。


本当にそうだろうか。


なっても、安心できない

1978年、心理学者ポーリン・クランスとスザンヌ・アイムスが、不思議な現象を発見した。


客観的に成功している人が、自分の成功を信じられない。


「自分の実力じゃない。運がよかっただけだ」

「いつか、自分が無能だとバレるんじゃないか」


クランスとアイムスは、これを「インポスター現象」と呼んだ。


最初は高業績の女性150人を対象にした研究だったが、後に男女を問わず起きることが分かった。

推定で約70%の人が、人生で一度はこの感覚を経験するとされている。


70%。


つまり、「何者かになった」人の大多数が、自分が「何者か」であることを信じられない。


「何者かになりたい」という呪い。

なった後も、解けない。


観察者の罠

2012年、朝井リョウが小説『何者』を発表した。

第148回直木賞を受賞した。


就職活動中の大学生5人のグループを描いた小説だ。

全員が「何者かになりたい」と思っている。


主人公の拓人は、他の就活生をTwitterで観察している。


「あいつは意識が高いだけだ」

「あの努力は方向が間違っている」


批評する側に立つことで、自分は安全地帯にいると思っている。


でも、ラストで暴かれる。


拓人の裏アカウントが発見される。

他人を「何者にもなれない人」と見下していた拓人こそが、最も「何者にもなれていない」人間だった。


観察者であること。

批評家であること。

それ自体が、「何者かになりたい」呪いからの逃避だった。


他人を評価している側も、同じ呪いの中にいる。


アイデンティティ危機の延長

心理学者エリク・エリクソンは、「アイデンティティ危機」という言葉を作った人だ。

1968年の著書『アイデンティティ:青年と危機』で体系化した。


「自分は誰か」「自分は社会のどこに属するか」が分からなくなる状態。


エリクソンは、これを青年期の正常な発達課題と位置づけた。

10代後半から20代前半に訪れ、通過するもの、と。


でも、現代はどうだろう。


30代になっても「自分は何者か」が分からない人がいる。

40代になっても、同じ問いを抱えている人がいる。


アイデンティティ危機が、終わらない。


面白いことに、エリクソン自身がアイデンティティ危機の当事者だった。

デンマーク系ユダヤ人で、実の父親が誰か知らなかった。

ドイツで育ち、アメリカに移住した。

本名はエリク・サロモンセン。後にエリク・ホンブルガー。最終的にエリク・エリクソンと名乗った。


「アイデンティティ」を研究した人自身が、生涯を通じてアイデンティティを探し続けていた。


生前は「何者でもなかった」人たち

ここで、少し視点を変えてみたい。


ゴッホ。

画家としての活動はわずか10年間だった。

生前はほぼ無名。弟テオの経済的支援なしには生活できなかった。

37歳で死去。

生涯で約2,100点の作品を残した。そのほとんどが、生前は誰にも知られなかった。


死後、20世紀最も有名な画家の一人になった。


カフカ。

本業はプラハの保険局の公務員だった。

文学は「夜の仕事」。昼間は労働者傷害保険の書類を処理していた。

三大長編『審判』『城』『失踪者』はすべて未完成のまま。

遺言は「すべて焼却せよ」。友人のマックス・ブロートが従わず、死後に出版した。


20世紀最大の作家の一人になった。


エミリー・ディキンソン。

約1,800編の詩を書いた。

生前に発表されたのは、約10編。

しかもそのほとんどは本人の意思ではなく、匿名で掲載された。


死後に妹が詩の束を発見し、出版された。

アメリカ文学を代表する詩人の一人になった。


「何者か」にならなかった人たちが、死後に「何者か」になった。


「何者か」は、生きている間に分かるとは限らない。


ここまでの気づき

  • インポスター症候群:「何者かになった」人の約70%が、自分の成功を実力だと信じられない。呪いは「なった後」も解けない
  • 朝井リョウ『何者』:他人を「何者にもなれない」と批評する人こそ、同じ呪いの中にいる
  • ゴッホもカフカもディキンソンも、生前は「何者でもなかった」。「何者か」は、生きている間に分かるとは限らない

明日へ

「何者かになりたい」の呪いは、なった後も解けない。

じゃあ、どうすればいいのか。

2300年前の中国に、面白い寓話がある。

渾沌という名の帝が、死んだ話だ。