哲学者は「何者か」を信じていない
「本当の自分を見つけよう」。
自己啓発書に、よく書いてある。
でも、「本当の自分」って、あるのだろうか。
哲学者たちに聞いてみると、面白い答えが返ってくる。
ほとんどの哲学者が、「何者か」を信じていない。
サルトルのペーパーナイフ
1945年、パリ。
フランスの哲学者ジャン=ポール・サルトルが、講演をした。
「実存は本質に先立つ」。
サルトルは、ペーパーナイフを例に出した。
ペーパーナイフは、作られる前から「何のためのものか」が決まっている。
紙を切るために作られた。設計図がある。用途がある。
つまり、本質が先にある。
人間は、違う。
サルトルによれば、人間はまず世界に投げ出される。
何のために生まれたか、決まっていない。
設計図がない。用途がない。
その後で、自分自身を作っていく。
実存(まずここにいること)が、本質(何者であるか)に先立つ。
つまり、「本当の自分」はあらかじめ存在しない。
探しても、見つからない。
作っていくしかない。
さらにサルトルは、こうも言った。
「私はこういう人間だから」。
そう言って、固定的なアイデンティティに逃げ込むこと。
それを、サルトルは「自己欺瞞」と呼んだ。
「何者かになった」と安心すること。
それ自体が、自由から逃げることなのだ、と。
ニーチェの「なれ」
サルトルより60年前。
ドイツの哲学者フリードリヒ・ニーチェは、こう書いた。
「汝の在るところのものとなれ」。
これは1882年の著書『悦ばしき知識』第270節に出てくる。
元々は古代ギリシャの詩人ピンダロス(紀元前5世紀)の言葉を引用したものだ。
「本当の自分を見つけろ」という意味に聞こえる。
でも、ニーチェの意味は違う。
「なれ」は、到達点ではない。
プロセスだ。
「何者かになった」というゴールは存在しない。
永遠に「なりつつある」こと自体が、生きるということ。
1888年の自伝『この人を見よ』の副題にも同じ言葉がある。
「いかにして人はその在るところのものとなるか」。
ニーチェにとって、人間は「作品」ではない。
「制作中」だ。
完成しない。永遠に。
ハイデガーの「世人」
1927年、ドイツ。
マルティン・ハイデガーが『存在と時間』を出版した。
この本の中で、ハイデガーは「Das Man」という概念を使った。
「世人」と訳される。特定の誰でもない、匿名の「みんな」のことだ。
「ひとがそうするように」振る舞う。
「ひとが着るもの」を着る。
「ひとが読むもの」を読む。
「ひとがそう判断するように」判断する。
誰もが、他の誰かに置き換え可能になる。
「私」が消える。
ハイデガーは、これを「悪い」とは言っていない。
人間の日常的なあり方として、淡々と記述した。
でも、ここで一つ考えてみてほしい。
「何者かになりたい」。
その声は、本当に自分の声だろうか。
「何者かになるべきだ」「何か成し遂げるべきだ」。
それは、「ひとがそう考える」から来ているのではないだろうか。
世人の声を、自分の声だと思い込んでいるだけかもしれない。
ワイルドの観察
最後に、一人だけ紹介したい。
アイルランドの作家オスカー・ワイルド。
1895年に投獄され、獄中から手紙を書いた。
それが『獄中記(De Profundis)』として1905年に出版された。
その中に、こんな一節がある。
「大抵の人間は他人である。彼らの思想は誰かの意見であり、人生は模倣であり、情熱は引用である」
あなたが「何者かになりたい」と思うとき。
その「何者か」は、本当にあなたが望んだものだろうか。
それとも、誰かの成功を模倣しようとしているだけだろうか。
ここまでの気づき
- サルトルによれば、人間に固定的な「本質」はない。「何者かになった」と安心することは、自由からの逃避
- ニーチェの「なれ」は到達点ではなくプロセス。人間は「完成品」ではなく、永遠に「制作中」
- ハイデガーのDas Man:「何者かになりたい」は自分の声ではなく、匿名の「みんな」の声かもしれない
明日へ
哲学者たちは「何者か」という固定的なものを信じていなかった。
じゃあ、実際に「何者かになった」人はどうだろう。
成功した人は、安心しているのだろうか。
明日は、少し意外な話をしたい。