最初の一行が、一番こわい
白紙のドキュメントを、開く。
カーソルが、点滅している。
何も、書けない。
そんな経験は、ないだろうか。
最初の一文字。
最初の一案。
最初の一歩。
なぜか、それが一番こわい。
不思議なことに、二歩目は、それほどでもない。
一歩目だけが、異様に重い。
こわいのは、失敗ではない
何が、こわいのだろう。
失敗そのもの、ではない。
「叩かれること」だ。
未完成なものを出して、笑われる。
直される。否定される。
だから、出さない。
完璧になるまで、隠しておく。
でも、完璧な日は、来ない。
頭の中で何度も練り直しているうちに、時間だけが過ぎていく。
面白いのは、真面目な人ほど、この罠にはまることだ。
きちんとしたものを出したい。だから、出せない。
完璧主義は、一歩目を、永遠に先延ばしにする。
「たたき台」という言葉
ここで、面白い言葉を思い出してほしい。
「たたき台」。
そもそも、叩かれる前提で名付けられている。
鍛冶屋の金床を、想像してみる。
熱した鉄を、台の上に置いて、叩く。
叩いて、叩いて、形にしていく。
その台は、叩かれるためにある。
叩かれない台に、存在する意味はない。
英語でも、最初の案を「draft(下書き)」と呼ぶ。
最初から、完成を約束していない言葉だ。
つまり、最初に出すものは、叩かれて当たり前。
未完成で、当たり前。
それを、私たちはいつの間にか忘れている。
何も出さない人は、安全だ
会議室で、一番安全なのは誰か。
何も意見を出さない人だ。
批評する人は、傷つかない。
完成を待つ人は、責任を負わない。
間違えようが、ないのだから。
でも、その人からは、何も生まれない。
18世紀の思想家ヴォルテールが、ある諺を紹介している。
「完璧は、良いものの敵である」。
完璧を求めて何も出さないより、不完全でも出したほうがいい。
そういう意味だ。
頭の中にある百点の構想は、誰の目にも触れない。
机の上に出された五十点のメモだけが、世界を動かし始める。
一番安全な場所は、一番何も生まない場所でもある。
議論は、たたき台から始まる
真っ白な紙を前に、十人で議論はできない。
「何かいい案、ない?」
その問いには、たいてい沈黙が返ってくる。
でも、粗い一案が、机の上に一枚あれば、どうだろう。
「ここはこうしたら」
「それは違うと思う」
「むしろ、逆では」
反応が、生まれる。
議論が、動き出す。
不完全だからこそ、人は手を入れたくなる。
隙があるから、入り込める。
完璧に仕上がった企画書には、誰も口を出せない。
粗い落書きには、みんなが参加できる。
たたき台は、議論のエンジンだ。
そして、それを最初に置いた人が、その場のすべてを、静かに動かしている。
ここまでの気づき
- 最初の一歩がこわいのは「失敗」ではなく「叩かれること」への恐れ。真面目な人ほど、完璧主義の罠にはまって動けなくなる
- 「たたき台」も「draft」も、叩かれる・未完成である前提で名付けられた言葉。最初に出すものは、粗くて当たり前だった
- 頭の中の百点より、机に出した五十点が世界を動かす。議論は、粗いたたき台が一枚あって初めて動き出す
明日へ
最初の一歩は、こわい。
でも、「叩かれること」は、本当に悪いことなのだろうか。
叩かれるために、たたき台は生まれてくる。
明日は、その話をしてみたい。