たたき台は、叩かれるために生まれてくる
前回、最初の一歩はこわい、という話をした。
その「こわさ」の正体は、叩かれることだった。
では、聞きたい。
叩かれることは、本当に悪いことなのだろうか。
私たちは「叩かれる=失敗」だと思い込んでいる。
でも、本当にそうだろうか。
鉄は、叩かれて鋼になる
もう一度、鍛冶屋の話をする。
熱した、鉄の塊。
そのままでは、ただの鉄だ。
やわらかく、もろい。
叩く。折り返す。また叩く。
何百回も、繰り返す。
すると、鉄の中の不純物が抜け、組織が締まる。
鉄は、鋼になる。
刃物になる。
叩かれなかった鉄は、鉄のまま。
叩かれた鉄だけが、刃になる。
たたき台も、同じではないだろうか。
叩かれることで、不要な部分が削られ、芯が残る。
「叩かれない」が、一番こわい
ここで、立ち止まって考えたい。
本当にこわいのは、叩かれることだろうか。
出した案に、誰も反応しない。
批判すら、されない。
それは、存在しないのと、同じだ。
否定は、つらい。
でも、否定は、関心の裏返しでもある。
どうでもいいものに、人はわざわざ反論しない。
叩かれるのは、それが議論する価値のあるもの、と認められた証だ。
一番こわいのは、叩かれることではない。
無視されることだ。
否定されるために、生まれる
19世紀の哲学者ヘーゲルが論じた弁証法に、こんな考え方がある。
ある主張がある。これをテーゼと呼ぶ。
そこに、反論がぶつかる。アンチテーゼだ。
ぶつかり合って、どちらでもない、より高い答えが生まれる。
ジンテーゼ、と呼ばれる。
面白いのは、ここだ。
最初の主張は、否定されるために存在している。
否定され、ぶつかられることで、次の段階へと昇っていく。
たたき台は、テーゼだ。
叩かれることで、より良い答えへと、姿を変えていく。
もし誰にも叩かれなければ、それは最初の形のまま、そこで止まる。
出したものだけが、戻ってくる
英語に、フィードバックという言葉がある。
直訳すれば、「戻ってくるもの」。
出したからこそ、戻ってくる。
出さなければ、何も戻ってこない。
叩かれもしないが、磨かれもしない。
頭の中にしまったアイデアは、いつまでも、生煮えのままだ。
外に出して、人にぶつけて、初めて、それは育ち始める。
叩かれることは、損ではない。
それは、自分のアイデアに、他人の知恵を足してもらう機会なのだ。
ここまでの気づき
- 鉄は叩かれて鋼になる。叩かれなかった鉄は鉄のまま。叩かれることで、不要な部分が削られ、芯が残る
- 一番こわいのは叩かれることではなく、無視されること。否定は、議論する価値があると認められた証でもある
- 弁証法では、最初の主張は否定されるために存在する。叩かれ、ぶつかられることで、より高い答えへ昇っていく
明日へ
叩かれることは、悪くない。
むしろ、磨かれること。
でも、ひとつ気になることがある。
叩く人と、台を作る人。
どちらが、えらいのだろう。
明日は、その話を。