第2回: パスカルとギャンブラー
サイコロは過去を知らない ─ 確率とデータの本当の関係②
1654年、フランス。
数学者ブレーズ・パスカルは、一通の手紙を書いた。
宛先は、ピエール・ド・フェルマー。
同じく数学者。
手紙のテーマは、数学の難問ではなかった。
ギャンブルの問題だった。
「点の問題」
パスカルの友人に、シュヴァリエ・ド・メレという貴族がいた。
彼はギャンブル好きで、ある日パスカルに相談を持ちかけた。
「賭けを途中でやめたとき、賞金はどう分けるべきか?」
具体的には、こういう問題だった。
2人が賭けをしている。
先に3点取った方が賞金をもらう。
ところが、A が2点、B が1点の時点で、ゲームが中断された。
賞金は、どう分けるのが「公平」か。
単純な答えでは足りない
「2対1だから、賞金も2対1で分ければいい」
一見、これで良さそうに見える。
でも、パスカルは違う考え方をした。
「今後、ゲームが続いた場合の可能性を考えるべきだ」
Aは、あと1点取れば勝ち。
Bは、あと2点取らないと勝てない。
次のゲームでAが勝つ確率は?
次のゲームでBが勝ち、さらにその次も勝つ確率は?
これを計算すると、Aの勝率は3/4、Bの勝率は1/4になる。
計算してみよう。
次のゲームでAが勝つ確率は1/2(Aの勝ち確定)。
次のゲームでBが勝ち、さらにその次もBが勝つ確率は1/2 × 1/2 = 1/4。
つまり、Aの勝率は1/2 + 1/4 = 3/4。
だから、賞金は「3対1」で分けるべきだ。
確率論の誕生
パスカルとフェルマーは、この問題について手紙を交わした。
1654年の夏、数通の書簡。
この書簡のやり取りが、確率論の始まりとされている。
面白いのは、その動機だ。
高尚な数学的探求ではなく、「賭けをどう公平に分けるか」という、極めて実践的な問い。
確率論は、ギャンブルの数学として生まれた。
ヤコブ・ベルヌーイ
パスカルとフェルマーの後、確率論を大きく発展させたのが、スイスの数学者ヤコブ・ベルヌーイだった。
彼は1713年に『Ars Conjectandi(推測術)』という本を出版した。
(出版は彼の死後)
この本の中で、ベルヌーイは「大数の法則」を証明した。
「試行回数を増やせば、観測された頻度は理論的な確率に近づく」
コインを10回投げると、表が7回出ることもある。
でも、1万回投げれば、表の割合は50%に近づいていく。
これを数学的に証明したのが、ベルヌーイだった。
ラプラスの確率論
1812年、フランスの数学者ラプラスが『確率の解析的理論』を出版した。
ラプラスは、確率をこう定義した。
「確率とは、起こりうる結果の数に対する、有利な結果の数の比である」
サイコロで1が出る確率は?
起こりうる結果:1, 2, 3, 4, 5, 6 の6通り
有利な結果:1 の1通り
確率 = 1/6
シンプルな定義だが、これが現代の確率論の基礎になった。
ラプラスはまた、「中心極限定理」も証明した。
多くの独立した要因が重なると、結果は正規分布(ベルカーブ)に従う。
これが、統計学の土台となった。
コルモゴロフの公理化
確率論が「数学」として完全に認められたのは、1933年のことだった。
ロシアの数学者アンドレイ・コルモゴロフが、確率論を公理化した。
たった3つの公理で、確率のすべてを定義した。
公理1: すべての確率は0以上
公理2: 全事象の確率は1
公理3: 互いに排反な事象の確率は、個々の確率の和
これにより、確率論は直感や経験ではなく、厳密な数学になった。
約300年の歴史
確率論の歴史を振り返ると。
- 1654年: パスカルとフェルマーの書簡(賭博問題)
- 1713年: ベルヌーイ『推測術』(大数の法則)
- 1812年: ラプラス『確率の解析的理論』(中心極限定理)
- 1933年: コルモゴロフの公理化
約300年かけて、「ギャンブルの数学」は「厳密な数学」になった。
ここまでの気づき
1. 確率論は「賭博問題」から始まった パスカルとフェルマーの1654年の書簡が起源。
2. ベルヌーイが「大数の法則」を証明した 試行回数が増えると、理論値に近づく。
3. 約300年かけて数学になった 1933年のコルモゴロフの公理化で、確率論は厳密な数学になった。
次回
ベルヌーイの「大数の法則」。
試行回数を増やせば、確率は収束する。
50%に近づいていく。
では、どれくらい増やせば、どれくらい正確になるのか。
「多ければ多いほど正確」
この常識は、本当に正しいのか。
次回: 50%に収束する世界 ─ 大数の法則と収穫逓減