第5回: 広告の本質とは何か
あの看板を右に曲がる ─ 広告の本質を問い直す⑤(最終回)
4回にわたって、看板広告を見てきた。
そこには、矛盾があった。
4つの矛盾
1. 広告なのに、道案内として使われている
「あの看板を右に曲がる」
看板の内容は覚えていない。
でも「あそこに看板がある」ことは覚えている。
2. 費用対効果が高いのに、投資されていない
CPMで見れば、看板広告は最もコスパが良い。
なのに、広告費全体に占める割合は約5%。
「効いている」実感がないから、投資されない。
3. 見ていないのに、覚えている
意識的に看板を見ている人は少ない。
でも「あの看板」と言えば、みんな分かる。
無意識には、刷り込まれている。
4. スマホ時代に、成長している
みんな下を向いている。
看板なんて見られていないはず。
なのに、OOH市場は成長を続けている。
矛盾から見える本質
これらの矛盾は、何を示しているのか。
一つの仮説がある。
広告の本質は「買わせること」ではない。
「存在を知らせること」かもしれない。
「買わせる」広告の限界
広告といえば、こう考えられてきた。
商品の魅力を伝え、購買を促す。
「これを買いたい」と思わせる。
それが広告の仕事だ、と。
でも、看板広告は「買わせて」いない。
看板を見て「この店に行こう」と思う人は少ない。
直接的な購買行動には、つながっていない。
では、看板広告は失敗しているのか。
そうとも言い切れない。
「存在する」ことの価値
看板広告がしているのは、別のことだ。
「存在を刷り込む」こと。
毎日、同じ場所で、同じ看板を見る。
意識していなくても、無意識には入っている。
「あそこに、あの店がある」という認識が、形成される。
これは「買わせる」とは違う。
もっと前の段階だ。
「知っている」「見たことがある」「なじみがある」。
その土台を作っている。
「道案内になっている」は失敗か
ここで、第1回の問いに戻る。
看板が道案内として使われている。
これは、広告の失敗だろうか。
考え直してみる。
「あの看板を右に曲がる」と言われたとき、何が起きているか。
その看板の「存在」が、認識されている。
場所として、目印として、記憶されている。
「あそこにある」ことが、当たり前になっている。
これは、広告として見れば、最強の状態かもしれない。
生活の一部になっている。
風景に溶け込んでいる。
もはや「広告」として意識されないほど、自然に存在している。
広告の成功とは何か
広告の成功を、再定義してみる。
短期的な成功: 商品を買わせること。
長期的な成功: 存在を当たり前にすること。
看板広告は、短期的には「効いていない」かもしれない。
でも、長期的には、深く刷り込まれている。
「あの看板」として、生活の一部になっている。
生活に溶け込むこと
ここに、広告の本質があるのかもしれない。
優れた広告は、生活に溶け込む。
「広告を見せられている」という感覚を与えない。
ただ、そこにある。
ただ、知っている。
ただ、なじみがある。
看板広告は、まさにそれを実現している。
道案内として使われるほど、生活に溶け込んでいる。
これを「失敗」と呼ぶのは、視野が狭いのかもしれない。
広告の再定義
この連載を通じて、広告について考え直してきた。
一つの定義を提案したい。
広告とは、存在を知らせ続けることである。
「買わせる」は、その結果として起きること。
まず「知られる」ことがある。
「なじみがある」ことがある。
「あそこにある」と認識されることがある。
その土台があって、初めて「買う」という行動が生まれる。
次に看板を見るとき
この連載を読んだ後、車を運転することがあるだろう。
道を歩くことがあるだろう。
そのとき、看板を見てみてほしい。
「あの看板を右に曲がる」
そう思った瞬間、広告は機能している。
意識していなくても、存在は刷り込まれている。
生活の一部になっている。
それこそが、広告の本質かもしれない。
ここまでの気づき
1. 広告の本質は「存在を知らせる」ことかもしれない 「買わせる」より前に、「知っている」状態を作ること。
2. 生活に溶け込んだ広告は、最も効いている広告かもしれない 道案内として使われるほど自然に存在している。
3. 「道案内になっている」は、広告の成功かもしれない 生活の一部になることで、深く長く刷り込まれる。
おわりに
看板広告という、見慣れた存在。
そこから、広告の本質を問い直してきた。
答えは出ていない。
でも、問い続けることで、見える景色が変わる。
明日、道を歩くとき、看板の見え方が変わっているかもしれない。
あの看板を右に曲がる ─ 広告の本質を問い直す(了)