「忙しい」を作っているのは、いつも自分
「忙しくて」と、つい口にする。
予定が埋まっている。
メッセージが鳴り続けている。
タスクリストが終わらない。
それを「忙しい」と呼ぶ。
でも、本当にそうだろうか。
予定を入れているのは、誰か
少し冷静に、考えてみる。
予定表に会議を入れたのは、誰だろう。
メッセージに返事をしているのは、誰だろう。
タスクリストにタスクを追加したのは、誰だろう。
全部、自分だ。
頼まれたから、入れた。
期待されているから、返した。
責任を感じたから、引き受けた。
「忙しさ」は、自分の選択の積み重ねだ。
それなのに人は、忙しさを「外から来たもの」のように扱う。
なぜ「忙しい」を美徳にしたのか
「忙しい」は、いつから美徳になったのだろう。
16世紀のヨーロッパ。
宗教改革者ジャン・カルヴァンは、こう説いた。
「勤勉に働くことは、神の栄光を示すことだ」
「働かない者」は、神に背く者とされた。
この考えは、プロテスタンティズムを通じて欧米に広がった。
社会学者マックス・ヴェーバーは、これを「資本主義の精神」と呼んだ。
「忙しい人=立派な人」という価値観は、宗教から生まれた近代の発明だ。
時計が支配した時代
18世紀の産業革命が、それを加速させた。
工場が生まれ、労働者は時計の鐘で動くようになった。
それまでの農民は、太陽と季節で生きていた。
産業革命後、人は「時間」に管理された。
「時は金なり」というベンジャミン・フランクリンの言葉が広まった。
時間を空けることは「損」になった。
予定が埋まっていない人は、価値の低い人と見なされた。
現代に残る亡霊
産業革命から250年が経った。
工場の時代は終わり、知識労働の時代になった。
それでも、「忙しさ=価値」という亡霊は残っている。
「最近どう?」と聞かれたら、人は答える。
「忙しくて」
それを言うことで、自分の価値を証明している。
「ヒマです」と答える人は、少ない。
ヒマだと答えると、なぜか負けた気がする。
「忙しい」と言わなければ、何が残るか
試しに、「忙しい」と一度も言わずに1週間を過ごしてみる。
代わりに、「やりたいことをやっている」と言う。
「集中している」と言う。
「楽しんでいる」と言う。
それでも、表現に困らないだろう。
「忙しい」という言葉は、実は何も言っていない。
「私は今、忙しさという鎧を着ている」と告白しているだけだ。
終わりに
「忙しい」を作っているのは、誰か。
頼んだ相手ではない。
期待した社会でもない。
入れたのも、引き受けたのも、自分だ。
そして、「忙しい」と呼ぶことで、その選択から目をそらしている。