#25分

人が黙って補っている3割

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人が黙って補っている3割

前回、AI を入れても議事録と資料作成で止まる話を書きました。 原因はモデルの性能ではなく、渡している記録の側にある、という話です。

では、記録の何が足りないのか。

人は、書かれていないことを自分で埋めている

書かれていないことがあっても、人は仕事を進められます。

分からなければ隣に聞く。前例を思い出す。場の空気から読み取る。相手の反応を見て直す。

筆者が現場で観察した範囲では、業務のおよそ3割がこの補完で成立しています。

ただし、この「3割」は測定値ではありません。 要件定義から納品まで関わった案件での体感であり、診断の出発点として置く目安にすぎません。 重要なのは正確な比率ではなく、無視できない量が記録の外にあるという事実のほうです。

AI は補完しない

AI が使えるのは、渡されたデータだけです。聞く相手がいません。 無理に埋めさせれば、事実でないものが出てきます。

つまり、人がやれば回る仕事が、AI だと止まる。

そしてこれが、現場でよく聞くあの言葉の正体です。

「人がやるなら回っている。でも人を減らしたら回らない」

能力の話でも人数の話でもありません。 記録が業務を再現できていない、という意味です。

この3割は「暗黙知」ではない

ここは用語を正確にしておきたいところです。本書は「3割=暗黙知」とは言いません。

3割の大半は、言えないことではなく、言えるが言っていないことです。

  • 「A社だけ締めが20日」→ 聞かれれば言える。ただ、どこにも書いていない
  • 「黄色は保留、赤字は要対応」→ 言える。対応表がない
  • 「この件は会議の前に窓口へ個別に通す」→ 言える。誰も書き出していない

これらを本書では 未記録の形式知 と呼びます。

学術的な意味での暗黙知——聞かれても言語化できないもの——は、この外側にあります。 「なぜか危ない気がする」のような感覚がそれで、 哲学者マイケル・ポランニーの「我々は語れる以上のことを知っている」が指しているのはそちらです。

この2つを混ぜると、話が「言語化できないものをどう扱うか」という難問に飛んでしまい、 手前にある、書けば済むものが放置されます。

学名は invisible work

なお、この「人が黙って補い、記録に残らない」現象には名前があります。 CSCW(コンピュータ支援協調作業)の分野が1990年代から扱ってきた invisible work(見えない仕事) です。

新しい発見ではありません。 新しいのは、それが AI に業務を任せられるかどうかを決める、という位置づけのほうです。

記録が不完全なのは、怠慢ではない

念のため書いておきます。

既存システムの項目は、人間が確認するために設計されています。 人間は足りない分を補完できるので、確認に必要な項目だけあれば足りました。

設計として正しかったのです。当時の利用者は人間だったのですから。

AI に同じ業務を代替させようとして、そこで初めて項目が足りないと分かる。 そして厄介なことに、この不足は導入時には見えません。 人が使っている間は補完が働いて表面化せず、AI に渡した瞬間に露呈します。

持ち帰り

自分の担当業務で1つ、思い浮かべてみてください。

その業務で、あなたが「書いていないけれど知っていること」は何ですか。

3つ挙がれば十分です。それが3割の実体で、そのままAIに渡らないものになります。

次回は、これを組織単位で見つける方法を書きます。問いは1つで足ります。


詳しくは:『AIレディ』第2章

出典

  • 3割:筆者の現場観察による体感値(測定値ではない)
  • we can know more than we can tell:マイケル・ポランニーの言葉として広く引用される
  • invisible work:Star & Strauss, Layers of Silence, Arenas of Voice(CSCW 8, 1999)