#87分

「暗黙知を書き出してください」は40年前に失敗している

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「暗黙知を書き出してください」は40年前に失敗している

ここまでの話から、素直に導かれる方針があります。

人が黙って補っている3割を、書き出してもらえばよい。

筆者も、最初はそう設計しました。 「暗黙知を書き出すシートを用意しますので、30分で埋めてください」と。

これは失敗します。 しかも、そのことは40年前に確認されています。

知識獲得ボトルネック

1970年代から1990年代初頭にかけて、エキスパートシステムが盛んに開発されました。 専門家の判断能力を、限定された領域で機械に再現しようとする試みです。

開発工程はこうなります。

知識エンジニアが専門家に話を聞く → 判断規則を引き出す → ルールとして記述する → 実装する

この1と2で、開発は詰まりました。

専門家は、事実は語れます。手順も語れます。 ですが、無意識に使っているヒューリスティック——「なんとなくこれは違う気がする」の中身——を語れませんでした。

これは 知識獲得ボトルネック と呼ばれ、知識工学の中心的な課題であり続けました。 哲学者マイケル・ポランニーの「我々は語れる以上のことを知っている」が、 比喩ではなく実務上の壁として現れた形です。

書かせる設計は、40年前に失敗が確認されています。 相手の意欲や能力の問題ではありません。語れないものを語らせようとしているからです。

筆者自身、この誤りを踏みました。自社で実験を設計したとき「30分で暗黙知を書き出す」手順を置き、 そして自分で書けませんでした。書けないから3割が3割のまま残っているのであって、 書けるなら最初から問題になっていません。

では、どうするか ― 訂正させる

人は「暗黙知を書いてください」には答えられないが、 「この判断は違う」には答えられる。

ゼロからの言語化と、目の前の誤りの訂正では、難易度がまったく違います。 前者は40年うまくいきませんでした。後者は日常業務として毎日行われています。

やり方はこうなります。

  1. AI に判断を出させる(不完全でよい。むしろ不完全なほうが訂正が出る)
  2. 人が「違う」と直す。書くのではなく、訂正する
  3. 訂正が溜まったら、AI が構造化する

人が触るのは2だけです。1件につき5項目・2分以内。

そしてこの答えは、1988年に出ている

正直に書いておきます。これは筆者の発案ではありません。

1988年、コンプトンとヤンセンは、まさにこの知識獲得ボトルネックへの回答として Ripple-Down Rules(RDR) を提案しました。 専門家に体系を書かせるのをやめ、システムが間違えた実ケースだけを、その文脈で訂正させる方式です。

彼らの観察は、こちらの立場とそのまま重なります。

専門家の知識は、どうやって正しい解釈に至ったかを説明するためではなく、 自分が正しかったことを正当化するために、ある程度その場で作られている。

知識は、文脈の中でのみ真である。

つまり「文脈を切り離した綺麗なルールは書けない」。だから文脈ごと、間違えた場面ごとに訂正させる。

40年前に失敗が確認されたのは「書かせる設計」であって、 「訂正させる設計」のほうは、同じ時期に成功していました。

提案で終わっていない

重要なのは、これが実運用されていることです。

  • 実運用の開始:1989年(病理検査の解釈レポート)
  • 商用実装で処理された報告:約3,000万件
  • 構築された知識ベース:14の臨床化学検査室で約100件
  • 1ルールあたりの専門家の時間:平均およそ1分
  • ナレッジエンジニア:不要。専門家が自分で積める

とくに4つ目が効きます。 通常のルールベースは大きくなるほど「他のルールと矛盾しないか」の確認に時間を食いますが、 RDR は文脈ごとに差分を積むので、そこが増えません。 知識ベースが数千ルールに育っても、1件約1分のままです。

筆者が現場感覚で置いた「1件2分以内」という制約は、 35年分の運用データとほぼ同じ水準でした。

では、何が新しいのか

3つです。それ以外は先行研究の再発見です。

  • 訂正の対象が、ルールベースの分類結果ではなく LLM の出力であること
  • 結論だけでなく 「なぜ」 まで取ること
  • 扱う領域が、判断が定型の業務ではなく 「仕事の進め方」(順序・タイミング・伝え方)であること

3つ目がいちばん大きいところです。 RDR が扱ってきたのは「この検査値はこう解釈する」という、正解が定義できる判断でした。 こちらが回収しようとしているのは「この件は会議の前に窓口へ個別に通しておく」という段取りで、 正解が一意に決まりません。

だから RDR の成功が、そのままこちらの成功を保証はしません。 検証すべきなのは「訂正方式が働くか」ではなく、 **「正解が一意でない領域でも働くか」**です。前者は既に答えが出ています。

持ち帰り

もし「暗黙知を書き出すシート」を配ろうとしているなら、いったん止めてください。

代わりに、AI に不完全な答えを出させて、それを直してもらうところから始めます。 白紙よりも、目の前の間違いのほうが、人はずっと答えられます。


詳しくは:『AIレディ』第11章・第12章

出典

  • 知識獲得ボトルネック:エキスパートシステム期(1970年代〜1990年代初頭)に確認された定説
  • we can know more than we can tell:マイケル・ポランニーの言葉として広く引用される
  • Ripple-Down Rules:Compton & Jansen(1988)
  • 商用実装の規模:Richards, Two decades of Ripple Down Rules research(Knowledge Engineering Review)/Compton et al.(2006, Knowledge-Based Systems)