「まだ起きていないこと」に怯える理由
明日の会議で、失敗したらどうしよう。
あの検査結果が、悪かったらどうしよう。
この先、仕事を失ったらどうしよう。
不安の多くは、未来を向いている。
まだ、何も起きていない。
それなのに、もう苦しい。
考えてみれば、不思議な話だ。
起きてもいないことで、なぜここまで消耗できるのだろう。
心配は、ほとんど当たらない
まず、ひとつの事実を思い出してほしい。
これまで心配してきたことを、数えてみる。
そのうち、実際に起きたことは、いくつあっただろう。
たぶん、ほんの一握りだ。
大半は、起きなかった。
取り越し苦労だった。
心配しただけ、損だった。
頭では、それをわかっている。
わかっているのに、また今日も、起きないことを心配している。
想像は、最悪を描く
なぜ、当たらないとわかっていても、怯えてしまうのか。
理由は、想像のクセにある。
先を想像するとき、人はなぜか、最悪の絵を描く。
「うまくいくかもしれない」より。
「失敗するかもしれない」のほうが、鮮明に浮かぶ。
これも、あの生き延びるためのクセだ。
最悪を想定して備えた人が、生き残ってきた。
だから脳は、悪い未来を、リアルに描くのが得意になった。
つまり不安とは、危険を先読みしようとする、まじめな計算でもある。
ただ、その計算は、いつも悪いほうへ大きく振れてしまう。
頭の中の敵は、大きく見える
想像には、もうひとつのクセがある。
頭の中では、輪郭が定まらない。
「なんとなく、まずいことになる気がする」
そのぼんやりが、いちばん人を怯えさせる。
夜道で、遠くの何かが黒く動く。
正体がわからないうちは、こわい。
でも、近づいて見たら、揺れる木の枝だった。
不安も、これに似ている。
正体がわからないから、大きく見える。
輪郭のない敵は、いくらでも巨大になれる。
想像の中でだけ、際限なくふくらんでいく。
「今」には、たいてい問題がない
ここで、静かに立ち止まってみたい。
今、この瞬間。
本当に、危険が起きているだろうか。
たいていの場合、答えは「いいえ」だ。
雨風がしのげて、体は無事で、命に別状はない。
苦しいのは、現実ではなく、未来の想像のほうだ。
苦しみは、「今」ではなく「まだ」にある。
まだ起きていない何かを、先に味わっているだけだ。
未来を心配して、今を苦しむ。
考えてみれば、もったいない使い方かもしれない。
起きてから、考えればいい
もちろん、備えは大切だ。
不安のおかげで、準備ができることもある。
でも、備えと、怯えは、違う。
備えは、一度すれば終わる。
怯えは、何度でも繰り返される。
同じ心配を、十回味わっても、準備は一回分しか進まない。
残りの九回は、ただ苦しんでいるだけだ。
だから、こう区切ってみる。
できる備えを、一度する。
あとは、起きてから考える。
そのときが来たら、そのときの自分が、なんとかする。
案外、人は、なんとかしてしまうものだ。
ここまでの気づき
- 不安の多くは未来を向いている。だが、これまで心配してきたことの大半は、実際には起きなかった
- 脳は生き延びるために、悪い未来をリアルに描くのが得意。だから想像は、いつも最悪のほうへ大きく振れる
- 輪郭のない敵は際限なく巨大になる。苦しみは「今」ではなく「まだ」にある。備えは一度で足りて、残りの怯えはただの消耗
明日へ
心配しても仕方ない。
そう思って、不安を「考えないようにしよう」とする。
ところが、消そうとするほど、不安はかえって膨らんでくる。
明日は、その不思議な逆説の話をしてみたい。