SNSの「あなた」は本物か
アイコンを選ぶとき、どんな写真を使うだろうか。
笑顔の一枚。プロフィール欄の言葉。ピン留めした投稿。
そこに「あなた」が、いる。
でも、それは本当に「あなた」なのだろうか。
毎日スクロールしながら、ふと気になることはないか。
「私はここで、誰になっているのだろう」と。
ゴフマンの舞台裏
1959年、社会学者アーヴィング・ゴフマンは『日常生活における自己呈示』を出版した。
彼の主張は、こうだ。
人間は常に「舞台俳優」として生きている。
「表舞台」では、観客に見せたい自分を演じる。
「舞台裏」では、素の自分でいられる。
仕事では「有能な社員」を演じる。
友人の前では「気さくな人」を演じる。
家では「疲れた一人の人間」に戻る。
ゴフマンはこれを「印象管理」と呼んだ。
演技は嘘ではない。人間の社会的生存本能だ、と。
SNSという特殊な舞台
問題は、SNSがその「舞台」を24時間稼働させることだ。
投稿する内容を選ぶ。
写真を加工する。
キャプションを何度も書き直す。
これはゴフマンの言う「印象管理」そのものだ。
だが、職場や友人の前での演技には、終わりがある。
家に帰れば舞台は終わる。
SNSには、舞台裏がない。
フォロワーはいつでも見ている。
通知は深夜にも届く。
鍵アカウントにしても、誰かが読んでいる。
2018年、ペンシルバニア大学のハント・アレクシーらの研究は、SNS利用を週30分に制限するだけで、孤独感と抑うつ感が有意に改善したことを示した。
舞台が終わらないことが、人を消耗させる。
アバターの哲学
もう一つ、面白い問いがある。
プロフィール画像を変えたとき、「あなた」は変わったのか。
哲学者デレク・パーフィットは1984年の著作『理由と人格』で、「人格の同一性」を問い直した。
昨日の私と今日の私は、同じ「私」なのか。
細胞は入れ替わる。考えも変わる。記憶も変わる。
それでも「同じ自分」と感じる根拠は何か。
SNSのプロフィールは、自分の一部を切り取ったものだ。
好きな部分だけ。見せたい部分だけ。
そのアバターは、自分の「本質」なのか。
それとも、そもそも「本質」などというものはないのか。
「本当の自分」という幻想
日本の心理学者・河合隼雄は、「本当の自分探し」という概念を批判的に分析した。
「本当の自分」を探す旅は、ときに出口のない迷宮になる。
どこかに「真の自己」があると信じて、SNSを使って発信を続ける。
反応が良ければ「これが本当の自分かも」と思う。
悪ければ「やっぱり違う」と思う。
でも、フォロワーの反応が「本当の自分」を決める根拠になるのか。
ウィリアム・ジェームズは1890年に『心理学原理』でこう書いた。
「人の自己の数は、彼を知っている人間の数と等しい」。
あなたは、あなたを知っている人の数だけ「自分」を持っている。
SNS上の「あなた」は、その一つに過ぎない。
多すぎる「自分」の中の、一枚のカード。
デジタルの鏡に映るもの
アリス・マーウィックの2013年の研究『ステータス更新』は、SNSユーザーが常に他者の視線を内面化していることを示した。
投稿する前に、「これを見たフォロワーはどう思うか」を想像する。
それは自分の声か。
それとも、想像上の他者の声か。
鏡に映った自分を見るとき、人は自分を見ているのか、他者に見られる自分を見ているのか。
SNSは、その鏡が何百万枚も並んだ回廊だ。
あなたがアイコンを選ぶとき。
プロフィールを書くとき。
投稿ボタンを押す前に一瞬迷うとき。
その迷いの中に、「本当のあなた」の気配があるかもしれない。
ここまでの気づき
- ゴフマンの印象管理理論が示す通り、SNS上の自己呈示は「演技」だが、それは嘘でなく人間の本能的な社会行動である
- SNSには「舞台裏」がない。常に他者の視線にさらされる構造が、人を慢性的に消耗させる
- 「本当の自分」は単一ではない。ウィリアム・ジェームズが言うように、関わる人の数だけ「自分」がある。SNS上の自己はその一枚に過ぎない
明日へ
SNSの「あなた」が本物かどうか、まだ答えは出ていない。
でも、もう一つの問いが浮かぶ。
「あなたがいる」ことの証明は、誰かに見られることなのか。
明日は、「フォロワー数」という数字が、存在の証明になるかどうかを考えてみたい。
💬 あなたはSNSのプロフィールに「本当の自分」を感じますか、それとも「作られた自分」を感じますか? コメントで聞かせてください。
📖 このシリーズの他の記事: