#56分

「いいね」がなくても、あなたはいる

デジタル存在論哲学SNSエッセイ生き方

「いいね」がなくても、あなたはいる

投稿して、1時間が経った。


いいねは、ゼロ。


そのとき、何を感じるだろうか。


「誰にも届かなかった」という感覚。

「価値がなかった」という感覚。

あるいは、「自分がここにいないような」感覚。


でも、本当にそうなのか。


「いいね」がなければ、あなたは存在しないのか。


4日間で見てきたこと

ここまで、4つの問いを考えてきた。


SNSの「あなた」は本物か。

ゴフマンの印象管理が示すように、SNS上の自己呈示は演技だ。でも演技は嘘ではない。


フォロワー数は存在の証明になるか。

数字は「存在の深さ」ではなく「接触の記録」だ。デカルトの「我思う」は、「我フォローされる」にはならない。


消えたアカウントは、消えた人生か。

「忘れられる権利」が示すように、削除は自己の再定義だ。痕跡は誰かの記憶に残る。


オフラインの自分に戻れないのか。

パスカルの退屈論が示すように、接続への衝動は人間の本性だ。でも「只管打坐」が示すように、オフラインの自分は消えていない。


そして今日、最後の問いに向き合う。

承認なき存在は、どこに根拠を持つのか。


西田幾多郎の「純粋経験」

明治から昭和にかけて生きた哲学者・西田幾多郎は、1911年に『善の研究』を著した。


西田の核心的な概念は「純粋経験」だ。


主観と客観が分かれる前の、直接的な経験。

「誰かに見られている自分」ではなく、「ただ、ある」という状態。


木を見るとき、「木を見ている私」と「見られている木」に分かれる前の一瞬がある。

その分裂が起きる前の状態が、純粋経験だ。


SNSは、あらゆる経験を「誰かに見られるもの」に変えてしまう。

夕日を見て「きれいだ」と思う前に、「これを撮って投稿しよう」と思う。


純粋経験の先取り。経験の商品化。


西田が言いたかったのは、その分裂の前に「根源的な自己」があるということだ。


承認の前に、あなたはいる。


鈴木大拙の「禅と自己」

西田と深く交わった哲学者・鈴木大拙は、禅の思想を英語で世界に伝えた人物だ。


彼は1949年の著作『禅と日本文化』でこう述べた。


「禅は自己の本質を問う。その本質は、言葉で説明できない。社会的役割でも、人間関係でもない」。


禅の有名な問いがある。

「父母未生以前、あなたの本来の面目は何か」。


生まれる前。名前がつく前。フォロワーを持つ前。

そのとき、あなたは何者だったのか。


この問いは、「答えを出すための問い」ではない。

問い続けることで、社会的なラベルの外に出るための問いだ。


「いいね」は生まれる前からなかった。

それでも、あなたはいた。


インスタグラムが「いいね」を隠した日

2019年、Instagramは一部の国で「いいね」の数を非表示にする実験を始めた。


目的は、精神的健康への配慮だった。


結果は、興味深かった。


数字が見えなくなった投稿者たちは、最初は不安を感じた。

でも、多くが「投稿の内容に集中できるようになった」と報告した。


数字が消えたとき、「何を言いたいか」に戻れた人がいた。


これは偶然ではないだろう。

承認の尺度が消えたとき、人は「自分が何者か」を内側に探し始める。


良寛と「ただいる」こと

前のシリーズ「なる」の呪いで紹介した良寛を、もう一度思い出したい。


良寛は托鉢僧だった。

寺を持たず、肩書きもなく、フォロワーも持たなかった。


でも、子供たちは良寛のそばに集まった。


良寛がいるから。

ただ、そこにいるから。


良寛の詩に、こういうものがある。


「草の庵に 寝ても覚めても 申すこと 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏」


特別な行為はない。

朝も夜も、ただ念じている。


「何かをしているから価値がある」ではない。

「ただいる」ことの静かな確かさ。


実存主義の逆説

サルトルの「実存は本質に先立つ」という命題は、自由と不安の哲学だ。


人間には、最初から決まった本質がない。

だから、自由に選べる。

だから、選ばなければならない不安がある。


SNS時代の逆説は、こうだ。


「自由に自分を表現できる」ツールが、「承認されなければ意味がない」という新たな本質を生んだ。


フォロワーがいなければ存在しないかのような感覚。

いいねがなければ価値がないかのような感覚。


これは、サルトルが言う「自己欺瞞」の一形態ではないだろうか。


「承認がなければ存在できない」と信じることで、自分の根源的な自由を否定している。


承認なき存在の根拠

では、承認なしに「存在している」根拠は何か。


西田が言う純粋経験。

鈴木大拙が言う言語以前の自己。

禅の「父母未生以前の本来の面目」。


これらは抽象的に聞こえる。


でも、日常の中に、これを感じる瞬間はある。


誰にも見せるつもりのない日記を書いているとき。

一人で山を歩いているとき。

深夜に音楽を聴いて、理由もなく涙が出るとき。


その瞬間、「見られる自分」は消えている。

でも、あなたはいる。


それが、承認なき存在の根拠だ。


「いいね」ゼロの投稿の価値

もう一度、最初の場面に戻ろう。


投稿して、1時間が経った。

いいねは、ゼロ。


でも、あなたはその投稿を書いた。

何かを感じて、言葉にしようとした。

その衝動は、本物だ。


誰かに届かなかったとしても、あなたが感じたことは起きた。

それは、取り消せない事実だ。


リクールが言ったように、「存在したことは、取り消せない」。


いいねがなかった投稿も、あなたが書いた時点で「存在した」。


ここまでの気づき

  • 西田幾多郎の「純粋経験」が示すように、承認の前に根源的な自己がある。「いいね」は後から付くものであり、存在の根拠ではない
  • 禅の「父母未生以前の本来の面目」という問いは、社会的ラベルの外に出るための問いだ。フォロワー数も肩書きも、その問いの前では意味を失う
  • 「いいね」がなかった投稿も、あなたが書いた瞬間に存在した。誰にも見られなくても、あなたが感じたことは起きた。それは取り消せない事実である

連載を終えて

5回にわたって「デジタル空間の存在論」を考えてきた。


SNS上の自己呈示はゴフマンの「印象管理」だ。

フォロワー数はブーバーの「我とそれ」の集積だ。

アカウント削除は「忘れられる権利」の行使だ。

常時接続はパスカルの「退屈からの逃走」の現代版だ。


そして最後に辿り着いた問いは、シンプルなものだった。


承認なしに、あなたはいるか。


西田幾多郎と鈴木大拙は、両方とも「いる」と言っている。

禅は「ただいることを問い直せ」と言っている。

良寛は、ただ子供たちと遊んでいた。


「いいね」がなくても、あなたはいる。


投稿を見る人がいなくても、あなたはいる。

フォロワーが一人もいなくても、あなたはいる。

アカウントを削除しても、あなたはいる。

オフラインでも、あなたはいる。


それは証明できない。

でも、感じられる。


誰にも見せない日記の一行に。

一人で見た夕日に。

深夜に涙した音楽に。


あなたがいた。


ここまで読んでくださって、ありがとうございました。

今、この瞬間、あなたはいる。


💬 「いいね」がなかったとき、あなたはどんなことを感じますか? コメントで聞かせてください。


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