#44分

オフラインの自分に戻れない

デジタル存在論哲学SNSエッセイ生き方

オフラインの自分に戻れない

電車の中で、スマホを置いて窓の外を見る。


30秒が過ぎる。


また手が、スマホに伸びる。


何を確認したいわけでもない。

通知も来ていない。

それでも、持ち上げてしまう。


これは「習慣」なのか。「依存」なのか。それとも、もっと深いところにある何かなのか。


パスカルの「退屈」

1670年、ブレーズ・パスカルは『パンセ』にこう書いた。


「人間のすべての不幸は、ただひとつのことから来る。部屋の中で静かに座っていられないということから」。


人間は、退屈に耐えられない。

だから戦争に行く。賭けをする。快楽を求める。


パスカルは17世紀の人間だ。スマホはなかった。


でも、この洞察は今も生きている。

むしろ、今の方がリアルかもしれない。


スマホは「退屈に耐えられない」という人間の本性に、完璧に適応した装置だ。


隙間時間があれば、コンテンツを差し込む。

沈黙があれば、通知で埋める。


退屈の入り込む余地が、なくなっていく。


退屈の失われた意味

でも、退屈には価値があったのではないだろうか。


2014年、英国の心理学者サンディ・マンとリック・クラドックは、退屈を経験したグループの方が、そうでないグループより創造的なアイデアを多く生成したと報告した。


退屈は、脳のデフォルトモードネットワークを活性化させる。

ぼんやりしているとき、脳は内側で何かを結びつけている。


スマホが退屈を奪うことは、この創造的な「ぼんやり」の時間も奪うことだ。


パスカルが「退屈から逃げるな」と言ったのは、1670年だ。

360年後の私たちは、退屈を感じる間もなくスクロールしている。


FOMO という病

「FOMO」という言葉がある。

Fear Of Missing Out。取り残される恐怖、だ。


SNSを開かないと、何か大事なことを逃してしまうかもしれない。


2013年、研究者アンドリュー・プジビルスキーらは、FOMOが高い人ほど、就寝前や食事中にもスマホを使う傾向があることを示した。


論理的には分かっている。

見なくても、何も失っていない。


でも、体が分かっていない。


スマホを置いた瞬間、「今も何かが起きているのに、自分だけ知らない」という感覚が忍び込む。


これはデジタル時代の新しい不安だろうか。

それとも、「群れから外れることへの恐怖」という太古の本能が形を変えたものだろうか。


常時接続の世代

1990年代後半以降に生まれた世代を「Z世代」と呼ぶ。

彼らの多くは、スマホが「あった世界」しか知らない。


心理学者ジーン・トウェンジは2017年の著作『iGen』でこう書いた。


スマートフォンが普及した2012年を境に、10代の孤独感、うつ症状、不安感が急増した。


常時接続が当たり前になった世代は、切断することを「普通の状態」として経験していない。


「デジタルデトックス」という言葉がある。


でも、これは「解毒」ではなく「学習」かもしれない。

オフラインの自分でいることを、改めて学ばなければならない。


沈黙に座る練習

禅には「只管打坐(しかんたざ)」という言葉がある。


ただひたすらに座ること。目的なく座ること。

道元禅師が13世紀に伝えた。


座禅の間、何もしない。

何かを考えようとしない。

何かを達成しようとしない。

ただ、座る。


これが、現代人にとって最も難しい行為になっている。


スマホを持たずに、10分間、何もしないで座れるか。


試してみると分かる。

手がどこかに行きたがる。

思考がざわざわする。


でも、それを「ただ観る」ことができたとき。


そこに、オフラインの自分が、いる。


ここまでの気づき

  • パスカルが言った「退屈に耐えられない」という人間の本性に、スマホは完璧に適応した。しかしその結果、創造的な「ぼんやり」の時間が失われた
  • FOMOは太古の「群れから外れる恐怖」がデジタル時代に変形したものだ。論理では制御しにくい、本能レベルの不安である
  • 「オフラインの自分」は失われたのではなく、使われていない状態にある。禅の「只管打坐」が示すように、何もしない時間を意図的に作ることで取り戻せる

明日へ

オフラインの自分に戻れないとしても、問いを変えてみたい。

「いいね」がなくても、あなたは存在している。

承認がなくても、あなたはいる。

連載の最終回は、その根拠を探してみたい。


💬 スマホを置いて「ただ座る」時間を、最後にとったのはいつですか? コメントで聞かせてください。


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