オフラインの自分に戻れない
電車の中で、スマホを置いて窓の外を見る。
30秒が過ぎる。
また手が、スマホに伸びる。
何を確認したいわけでもない。
通知も来ていない。
それでも、持ち上げてしまう。
これは「習慣」なのか。「依存」なのか。それとも、もっと深いところにある何かなのか。
パスカルの「退屈」
1670年、ブレーズ・パスカルは『パンセ』にこう書いた。
「人間のすべての不幸は、ただひとつのことから来る。部屋の中で静かに座っていられないということから」。
人間は、退屈に耐えられない。
だから戦争に行く。賭けをする。快楽を求める。
パスカルは17世紀の人間だ。スマホはなかった。
でも、この洞察は今も生きている。
むしろ、今の方がリアルかもしれない。
スマホは「退屈に耐えられない」という人間の本性に、完璧に適応した装置だ。
隙間時間があれば、コンテンツを差し込む。
沈黙があれば、通知で埋める。
退屈の入り込む余地が、なくなっていく。
退屈の失われた意味
でも、退屈には価値があったのではないだろうか。
2014年、英国の心理学者サンディ・マンとリック・クラドックは、退屈を経験したグループの方が、そうでないグループより創造的なアイデアを多く生成したと報告した。
退屈は、脳のデフォルトモードネットワークを活性化させる。
ぼんやりしているとき、脳は内側で何かを結びつけている。
スマホが退屈を奪うことは、この創造的な「ぼんやり」の時間も奪うことだ。
パスカルが「退屈から逃げるな」と言ったのは、1670年だ。
360年後の私たちは、退屈を感じる間もなくスクロールしている。
FOMO という病
「FOMO」という言葉がある。
Fear Of Missing Out。取り残される恐怖、だ。
SNSを開かないと、何か大事なことを逃してしまうかもしれない。
2013年、研究者アンドリュー・プジビルスキーらは、FOMOが高い人ほど、就寝前や食事中にもスマホを使う傾向があることを示した。
論理的には分かっている。
見なくても、何も失っていない。
でも、体が分かっていない。
スマホを置いた瞬間、「今も何かが起きているのに、自分だけ知らない」という感覚が忍び込む。
これはデジタル時代の新しい不安だろうか。
それとも、「群れから外れることへの恐怖」という太古の本能が形を変えたものだろうか。
常時接続の世代
1990年代後半以降に生まれた世代を「Z世代」と呼ぶ。
彼らの多くは、スマホが「あった世界」しか知らない。
心理学者ジーン・トウェンジは2017年の著作『iGen』でこう書いた。
スマートフォンが普及した2012年を境に、10代の孤独感、うつ症状、不安感が急増した。
常時接続が当たり前になった世代は、切断することを「普通の状態」として経験していない。
「デジタルデトックス」という言葉がある。
でも、これは「解毒」ではなく「学習」かもしれない。
オフラインの自分でいることを、改めて学ばなければならない。
沈黙に座る練習
禅には「只管打坐(しかんたざ)」という言葉がある。
ただひたすらに座ること。目的なく座ること。
道元禅師が13世紀に伝えた。
座禅の間、何もしない。
何かを考えようとしない。
何かを達成しようとしない。
ただ、座る。
これが、現代人にとって最も難しい行為になっている。
スマホを持たずに、10分間、何もしないで座れるか。
試してみると分かる。
手がどこかに行きたがる。
思考がざわざわする。
でも、それを「ただ観る」ことができたとき。
そこに、オフラインの自分が、いる。
ここまでの気づき
- パスカルが言った「退屈に耐えられない」という人間の本性に、スマホは完璧に適応した。しかしその結果、創造的な「ぼんやり」の時間が失われた
- FOMOは太古の「群れから外れる恐怖」がデジタル時代に変形したものだ。論理では制御しにくい、本能レベルの不安である
- 「オフラインの自分」は失われたのではなく、使われていない状態にある。禅の「只管打坐」が示すように、何もしない時間を意図的に作ることで取り戻せる
明日へ
オフラインの自分に戻れないとしても、問いを変えてみたい。
「いいね」がなくても、あなたは存在している。
承認がなくても、あなたはいる。
連載の最終回は、その根拠を探してみたい。
💬 スマホを置いて「ただ座る」時間を、最後にとったのはいつですか? コメントで聞かせてください。
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