フォロワー数は存在の証明になるか
「1,000人フォロワー達成しました」という投稿を見た。
本人はどこか誇らしそうで、フォロワーたちが「おめでとう!」と書き込んでいた。
あの高揚感は何なのだろう。
数字が増えることで、何かが「証明」された気がする。
その感覚の正体を、少し掘り下げてみたい。
デカルトの「我思う」をSNSに置き換えると
1637年、ルネ・デカルトは言った。
「我思う、ゆえに我あり」。
あらゆるものを疑っても、疑っている「私」だけは疑えない。
思考の存在が、存在の証明だ。
では、SNS時代のバージョンはどうなるか。
「我投稿する、ゆえに我あり」。
「我フォローされる、ゆえに我あり」。
笑えない話だ。
でも、どこかリアルではないだろうか。
反応がゼロの投稿をしたとき、「誰にも届いていない」という感覚は、「自分が存在していない」感覚に近い。
承認欲求の歴史
心理学者エイブラハム・マズローは1943年に欲求の階層理論を発表した。
生理的欲求。安全の欲求。所属と愛の欲求。承認欲求。自己実現の欲求。
承認欲求は、階層の4番目にある。
生存と安全が確保されると、次に「認められたい」という欲求が出てくる。
これは、人間が社会的動物であることの証だ。
群れの中で認められることが、生存確率を上げた時代の記憶。
SNSは、その承認欲求に直接アクセスする装置だ。
フォロワーが増える。いいねが届く。コメントが来る。
ドーパミンが出る。また投稿したくなる。
2016年、UCLA神経科学者ローレン・シャーマンらの研究は、ティーンエイジャーがSNSで承認されたとき、脳の報酬回路が活性化することを示した。
ギャンブルと同じ回路だ。
数字は何を測っているのか
フォロワー数1万人と10人。
どちらが「より存在している」のか。
直感では、1万人の方が「存在感がある」と感じる。
でも、何を測っているのか。
コンテンツの質か。
配信のタイミングか。
アルゴリズムの好みか。
メディア研究者のdanah boydは2014年の著書『It's Complicated』でこう書いた。
「SNSの人気は、コンテンツの価値よりも、ネットワーク効果に依存することが多い」。
フォロワーが多い人のところにフォロワーが集まる。
それは「存在の価値」ではなく「ネットワークの慣性」だ。
「見られる自己」の危うさ
哲学者ジャン・ポール・サルトルは1943年の『存在と無』で、こう述べた。
「地獄とは他者のことだ」。
これは一般的に「他人と生きることの苦しさ」として理解されるが、正確には違う。
他者の「まなざし」によって、自分が「物」として見られてしまうことの苦しさだ。
他者の視線の中で、私は「あの人」になる。
自分が定義した自分ではなく、他者が定義した「あの人」に。
フォロワー数は、他者のまなざしの集積だ。
数字が増えるほど、「物として見られた回数」が増えている、とも言えるかもしれない。
10万人に見えない1人
ここで逆説的な話をしたい。
フォロワー10万人のインフルエンサーがいる。
毎日投稿している。反応も多い。
でも、深夜3時に眠れなくて、「自分は本当に大丈夫なのか」と思ったとき。
その10万人は、そこにいるか。
1対1で話を聞いてくれる人が1人いるのと、数字としての10万人では、どちらが「存在を証明」してくれるのか。
哲学者マルティン・ブーバーは1923年に『我と汝』を著した。
人間の関係には「我と汝」と「我とそれ」がある。
「汝」は向き合う存在。「それ」は利用する対象。
フォロワーの多くは「それ」だ。
数字は「存在の証明」ではなく、「接触の記録」に過ぎない。
ここまでの気づき
- 「フォロワー数=存在の証明」という感覚は、承認欲求という普遍的な人間の本能とSNSのドーパミン報酬ループが結びついた錯覚である
- フォロワー数はコンテンツの価値ではなくネットワーク効果を反映しており、存在の深さや重さとは無関係だ
- サルトルの「まなざし」が示すように、見られることは自由ではなく、むしろ自己が「物化」されるプロセスでもある
明日へ
フォロワー数が存在の証明にならないとすれば、次の問いが生まれる。
アカウントが消えたら、「あなた」も消えるのか。
デジタル上の死と、存在の消滅。
明日は、アカウント削除という行為の哲学的な意味を考えてみたい。
💬 フォロワーが増えたとき、あなたは何を感じますか? その感情を言葉にしてみてください。
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