できない人が世界を変えた
「あの子は少し遅れている」。
そう言われた子供が、のちに世界を変えることがある。
これは励ましの言葉ではない。
歴史的な事実だ。
「できない」と評価された人が、最終的に何かを残すことがある。
なぜなら、「できない」という評価は、ある時代・ある文脈における判断にすぎないからだ。
今日は、その話をしてみたい。
チャールズ・ダーウィンの話
チャールズ・ダーウィンは、若い頃「平凡な学生」だった。
エジンバラ大学で医学を学んだが、手術の残酷さに耐えられず中退した。
父親は失望した。
ケンブリッジ大学に転じて神学を学ぶが、成績は特に優れていなかった。
指導教員のジョン・スティーヴンス・ヘンズローが「見どころがある」と感じて推薦しなければ、ビーグル号への乗船はなかった。
22歳でビーグル号に乗り込み、5年間の航海に出た。
帰国してから『種の起源』を発表するまで、20年かかった。
証拠を集め、考え、また考えた。
同時代の科学者たちから見れば、ダーウィンは「遅い研究者」だった。
論文発表の数も少なかった。
でも、その20年の「遅さ」が、人類の世界観を変えた。
アルベルト・アインシュタインの話
アインシュタインは、子供の頃に言語習得が遅かった。
3歳になっても、ほとんど話せなかった。
両親は心配した。教師の一人は「何をやらせてもうまくいかないだろう」と書いた。
チューリッヒ工科大学(ETH)の入試では、一度不合格になった。
1905年、26歳のとき。特許局の三等技術審査官だった。
この年、アインシュタインは4本の論文を発表した。
光電効果。ブラウン運動。特殊相対性理論。質量とエネルギーの等価性(E=mc²)。
「特許局の役人」が、物理学の歴史を書き換えた。
「できない」という評価は、その人の全体を見ていない。
特定の文脈での特定の能力の断面にすぎない。
宮沢賢治の話
宮沢賢治は、生前に2冊の本を自費出版した。
1924年、詩集『春と修羅』。
1924年、童話集『注文の多い料理店』。
どちらも、ほとんど売れなかった。
農業指導をしながら、夜に原稿を書き続けた。
病気がちで、37歳で亡くなった。
死後、友人たちが原稿を発掘し、出版した。
『銀河鉄道の夜』も『風の又三郎』も、死後に世に出た作品だ。
賢治が生きた時代、彼は「あまり売れない作家」だった。
でも、90年以上経った今も、子供たちが賢治の物語を読む。
「生前に売れること」と「価値があること」は、同じではない。
速さ≠価値
ここに、共通するテーマがある。
ダーウィンは遅かった。
アインシュタインは、最初は「できない子」だった。
賢治は、生前は評価されなかった。
彼らが「遅かった」「できなかった」のは、周囲の評価の基準に合わなかったからだ。
「速く答えを出す」。
「すぐに成果を出す」。
「周りと同じスピードで進む」。
これらは、ある文脈での「できる」の定義だ。
すべての「できる」の定義ではない。
2013年、経営学者のロバート・サットンは著書『良い上司、悪い上司』の中でこう指摘した。
「短期成果だけを評価する組織は、長期的に衰退する」
速さだけが価値ではない。
「役に立たない研究」が世界を変えた
科学史には、こんな話がある。
1928年、アレクサンダー・フレミングがペニシリンを発見した。
でもその後、約10年間、誰も関心を持たなかった。
「培養皿にカビが生えた」。それだけのことに見えた。
1939年、ハワード・フローリーとエルンスト・チェーンが研究を引き継いだ。
1941年、臨床試験が始まった。
ペニシリンは、第二次世界大戦で数百万人の命を救った。
「すぐに役に立たない」ことが、最も役に立ったのだ。
ベル研究所では、「研究者が自分の興味で研究していい時間」を保証していた。
その「遊び」から、トランジスタが生まれた。情報革命の基礎だ。
「即効性がない」ことは、「価値がない」ことではない。
ここまでの気づき
- ダーウィン、アインシュタイン、宮沢賢治——「できない」「遅い」「売れない」と評価された人たちが、時代を超えた価値を残した
- 「できる」の定義は、文脈に依存する。「速さ」「即効性」「同期との比較」は、ある文脈での基準にすぎない
- 「役に立たない研究」がペニシリンを生んだ。すぐに成果が出ないことは、価値がないことではない
明日へ
「できない人が世界を変えた」。
これは事実だ。でも、それは「どんなにできなくても大丈夫」という話ではない。
「できない自分」と、どう付き合うか。
戦うのでも、諦めるのでもなく、「いまのまま」でいられるか。
最終回は、河合隼雄と鷲田清一の言葉を借りて、その問いに向き合いたい。
💬 「遅咲き」や「時間がかかること」を肯定された経験はありますか? コメントで聞かせてください。
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